さとうの美味しいごはん

感想・考察など

【モリミュOp.3】 初見の感想

まちに待ったミュージカル憂国のモリアーティOp.3のBlu-ray発売。

モリミュを大画面で見る為にホームプロジェクターを導入しました。

初見の感想を書き留めておこうと思います。

 

以下、好きなシーンの紹介にかこつけて見えないものを見る。

 

♪ 謎が謎めいて

 シャーロックは、アンサンブルさんの間で真ん中で立ちすくんで歌う演出が多い。Op.2の「あいつは~俺が守る」の時もそうでしたね。シャーロックは民衆の中で生きているので、人並外れた観察眼と推理力を持っていても、彼は民衆の上に立つことはなく、俯瞰した視線を得ることもない。そして平野シャーロックは、人波の中に翻弄される演技が上手いと感じます。人の世を「荒んだ」(これは原典シャーロック風に言えばつまらないという感情なのでしょうが、このシャーロックは個人では、原作と異なって階級制度に疑問を持つゆえのどうしようもない報われなさのような感情を宿しているような気もします)としばしば表現するシャーロックですが、人に紛れて歌うシーンでは必ず、人を追いかけて縋るような演技が入るのです。

 ふと思い出すのは、Op.1のらせん階段での推理対決のシーン。ウィリアムの最後のアンサーは「コックニーで話されるのはご自分の出自に誇りがあるから 特に母方への強い誇りが 違いますか?」この後のシャーロックの「どうしてわかった」までの間は、ウィリアムの推理全体に対しての感動なのか、それとも最後の出自と誇り関するアンサーに対しての感動なのかはわかりません。しかし、このシャーロックは間違いなく、出自や身分、そしてこの世を生きる「人」に対して言葉とは裏腹に大きな思い入れを抱いていて、それが無意識にこのような人に縋るしぐさを見せる演技の裏にあったら、と思うのです。

 対称的に、ウィリアムは基本的に世界を俯瞰している。Op.2の「悲しきものの涙が」の時も、一瞬民衆の間で歌い始める場面があったが、ウィリアムがかけよると糸が切れたように崩れ落ち、彼の腕の中に入ることはない。ウィリアムがしているのは上から寄り添うことで、これはシャーロックとの大きな違いだと思います。それでも、ウィリアムも人に手を差し伸べる、見方によっては縋るようなしぐさを見せることもあるけれど、ウィリアムが縋る先の人物はつねに冷たくなった人影で、世に「生きる」人に縋ることはない。

 ここまで書いて気づいたのですが、こんなところにはも生に向かうシャーロックと死の定めへを歩むウィリアムが対比されているのでしょうか。

 

♪ パターソン 悪魔の使徒はひそやかに

 ウィリアム陣営の中で彼は、少し立ち位置が異なるように感じます。立ち位置というよりは、ウィリアムと自己に対する認識の違いです。彼はウィリアムを悪魔と認識したうえで、自らを悪魔の使徒と称し、そう歌っている。モランとフレッドは、自らとウィリアムを悪とは認識しているが、すくなくともウィリアムを正しいことを遂行するものとして、悪魔などとは表面的にはいうが、本心では全くそう思っていないのではないかと思う。フレッドに関しては、ウィリアムが自分の所業を悪しく言うたびにかならず「でも、ウィリアムさんは……!」と言い募りますしね。

 パターソンはウィリアムの悪性と、それゆえの魔性ともいえる魅力を自覚したうえで彼に忠誠を誓い、また自身の悪性をも自覚している。「権力の大樹に身を置いて ……狂うはこの世の理か」この歌詞は汚職に手を汚すアータートンに対してのみ向けられたものであるとは思えない。「自分はヒーローになりたかったんだ」と正義に憧れていうパターソンは、自分の中の悪性を否定せず、一方で正義に対して憧憬を抱きながら決して届かない手を伸ばすという矛盾をについてどうとらえているのか。本作では明らかになることはありませんでしたが、きっと秘められたバックグランドがあるに違いないと感じさせる独白でした。

 先日、声優山本雄斗さんのラジオでOp.3の感想が配信されているのを拝聴しました。(この方もすっかりモリミュのファンになっているようで嬉しい限りです)そこで、パターソンのこの歌を指して、狂気とウィリアムへの心酔と表現していてそれもそうかもと解釈に新画角を得ました。パターソンの本心が本当にわからないのですが、今のところ、①自嘲(↑で述べたとおり)、② 狂気 ③ 心酔・背信 あたりが三つ巴の状況です。②の狂気に関して、パターソンは主任警部に重ねて、己の狂は自覚しており、それは即ち理性なのかと思っていたのですが、狂気を自覚してウィリアムへの誓いを立てる行為は、確かに一言で理性とは片づけられませんね。再考の余地があります。

アルバートからウィリアムへの歌

 アルバートの歌っている間ウィリアムがストップモーションだと知って思わず見直したら本当にそうなのですね。ビジュアルコメンタリーでも勝吾さんがそうおっしゃていました。アルバートの声は、決してウィリアムに届かないのか?そう思わずにはいられない歌だったと感じています。

 同じく兄弟からウィリアムへ向けた歌としてすぐに思い出すのが、Op.2のルイスの「兄さんソング」。そこでは、最初ウィリアムが頑なにルイスから目をそらしていました。それをアルバートが、ルイスからウィリアムへ、その想いの橋渡しをして、そこでようやくウィリアムはルイスを見据えることができるので、ここでルイスの思いはウィリアムに受け入れられたのだと感じることができました。(ビジュアルコメンタリーで、久保田さんが嫉妬の嵐ですよ、なんて言っていたので今見ると違って見えるのかもしれませんが)

 一方でアルバートの歌はウィリアムへ届いたのか、酷く不安が残ります。そもそもの歌詞を思い出しても、アルバートの思いはウィリアムに何かを訴えるものだったか?アルバートの心のうちだから、実際にはウィリアムへは聞かせてはいないとはいえ、ウィリアムへ対して問いかける言葉も、彼に対して何かを望む言葉も含まれていません。

 それに「ならば私は誓おう ともに重き荷を負いて ゴルゴダへの道を歩もう」というアルバートの歌の直後のウィリアムの台詞。これも酷く不釣り合いな、何を言葉の裏にはらんでいるのか冷たいものを感じました。「死の定めは変えられないけれど、せめてそれまでは悔いなく行きたいと思うのです」と、これはひどく明るい表情でウィリアムは言いますが、これは明らかな”嘘”ではないか?それも、アルバートに心配をかけまいという優しさから出た嘘ではなく、嘘をついていることも取り繕えないような。そんなものに聞こえました。

 久保田さんの歌い方について追加で気づいてしまったのですが、彼はこのパートを歌うとき、フレーズの語尾を伸ばさずにやや違和感があるくらい短い音符で終わるものが多くあります。また、ロングトーンでもビブラートはかけずに音符を短く止めて落としていく。ひょっとして、これはこの歌がウィリアムに届かないことを意味しているのではないか?あるいは、アルバートとしてもウィリアムに届かせる気はなく、口からこぼれた言葉は届けられることも、振返えられることもなく、ただその場にぼてぼてと落ちている。そんな心情を歌い方においても表現されているのは、ともしそうだったら底知れないなと思いました。

 

長くなってしまうのでいったんここで区切りです。