さとうの美味しいごはん

感想・考察など

感想 舞台「吸血鬼すぐ死ぬ」

本日6月10日17:00公演、舞台『吸血鬼すぐ死ぬ』を観劇してきました。

www.marv.jp私はモリミュ、劇団ドラマティカ以降山本一慶さんのファンなのですが、主演の面白吸血鬼を彼が演じると聞いた瞬間、この舞台は面白くなるに違いない!!と期待大で喜び勇んでチケットを取りましたが、結果、期待を裏切らない、むしろ期待以上の面白い作品に仕上がっていましたね。チケットが一枚しかないのが大変悔やまれますが、おとなしく千秋楽配信とBlu-rayを購入することとします。

 

各キャラの感想

ラルク(山本一慶さん)

はい、彼がいれば舞台の上で何が起きても問題ありません。トラブル、アドリブ、大寒波なボケ、すべてを拾ってエンタメに昇華・笑いに変えてくれます。そんな彼の芝居力や立ち回りの安定感を随所に感じることのできる作品でした。一慶さん演じるドラルクは声を張ったり大声を出したりすることはないのに、なぜかよく通るノーブルなお声で、相方のロナルドだけでなく、いろんな人がいろんなところでひっきりなしにかますボケを片っ端から拾いまくります。声のトーンも突っ込みではなく、ついぽろっと思っていたことが口に出ちゃったという感じ。
例えば砂を用意してくれる黒子さんに対して「あ、そういうことね」といただきますのようにお手々を合わせたり、舞台上の砂をモップで片づける黒子さんに対して、「あ、ご苦労さまですー」とご挨拶をしたりしていて、そのたびに客席からクスクスという笑いが起こっていました。
後半のバカエピソード暴露大会でも、各人がおそらくアドリブで一生懸命考えてくるであろうエピソードにちゃんと突っ込む。「ロナルド君、それって船も鉄だけど水に浮かぶと思うよ」ドラルク一慶、ボケてくれた人への敬意を忘れない。けなげ礼儀正しい吸血鬼ですね。
あと忘れてはいけないにが、砂になるシーン。
公演PVでもネタバラしをせず、劇場に来てからのお楽しみにされていた注目の演出を、不安と期待でドキドキしながら待っていたのですが、当然のごとく予想を180度を裏切られて凄くよかったです。正直とても不安だったのが、昨今技術が発達しているプロジェクションマッピングでお茶を濁したり、薄膜スクリーンが登場したりするのではという可能性だったのですが、すべて物理的に砂になっていて最高でした。物理はすべてを解決する。力こそパワーです。
ロナルドとの出会いのシーンでは、死ぬのが思ったよりワンシーン早くて、え???そこ???ってなりましたし、まさか緩衝材を頭からかぶって崩れ落ちるとはつゆも思いませんでした。公演前のインタビュー記事で、一慶さんご本人も「どうやって砂になるのか今から楽しみです」「砂掃除の休憩があったりしてね」と言っていたのが現実になって本当にびっくりです。そのほかの砂になり方のバリエーションも豊かで、砂っぽい模様の布をかぶったり砂っぽいわしゃわしゃで隠れたり、砂になるだけでなく砂へのなり方でもひと笑いとっていくのが本当に最高でした。こういう人力舞台大好きだそ。

 

半田(吉高志音くん)

モリミュのラスキンで認識した期待の新人さん。フレッシュで一生懸命な演技がキャラクターととてもあっていました。持ち前の歌唱力はもちろんなのですが、アドリブを任されていたシーンが結構ありましたね。
例えばクッキーのシーン。
床下から登場するヒナイチちゃんに対して口説きながらクッキーをパクパク食べさせるシーンの後に登場する半田がドラルクにクッキーを食べさせるシーン。
半田役の吉高志音くんが、クッキーを貯金箱に硬貨を入れるかのように、ドラルクのお口にクッキーを入れてドラルクが喋れなくなってしまっていました。ちょっと半田回収できずに困っていましたのですかね?お水を取りに舞台をはけて戻ってきたりしていたようです。君の周りには優秀な先輩がたくさんいるので、これからも頑張ってね。今後がもっと楽しみです。

 

ロナルド(鈴木裕樹さん)

山本一慶さんだけでなく、毎度ひっかき回される舞台の屋台骨として、彼の力も大きいことを忘れてはいけません。鈴木さんのロナルドはなんといっても観客が振り落とされないハイテンションと、間を持続させるのがとても上手いですね。キャラ自体はいい意味で裏表や屈折したところがなくてシンプルなんですが、たぶんあの舞台をダレさせることなく観客を乗せ続けるのが本当に大変。彼は事前インタビューで「テンションを大事にしています」と繰り返し言っていたので、勢いで押し切る舞台なのか?と少し懸念していたのですが(私は初見舞台に対する懸念事項が多すぎるタイプの人間です)、めちゃくちゃ安定感のあるベテランの役者さんじゃぁないですか、ご謙遜が過ぎますよ。所作の端々までロナルドを宿していて、それで出てくるのがくるのがあのテンションとどなり声なんだなと、原作も知らない私も納得させられてしまいました。
ナギリのエピソードで、一人で抱え込んでイライラしているシーンも、あれはあそこから何かしらの感情吐露につながる前振りではなくて(だとしたら、あまりにもほうれん草ができないダメ主人公のやらせでダルいなぁなんて思ったのですが)、別にどうでもいい状況で、一人で抱え込んで主人公面しようとしているロナルドを、くそ面倒くせぇ!!とちぎって投げるための前振りなんでしょうね。あまりにロナルドがちゃみちゃみしていて最高ですし、吐き出すようね「みんな、聞いてくれ!!」にたいして、ドラルクが「いや聞いてるよ」と皆があきれたような視線をよこす間で笑いが起こるのもよかったです。

 

最初っから最後までくだらない内容をとことん真面目にやると、こんなクオリティのエンタメになる。ひっさしぶりに劇場で思いっきり笑って、最高にエンターテイメントされた一日でした。くだらないことを真剣にやると面白い舞台の完成形、ここにありです。

舞台『鋼の錬金術師』

石丸さち子さん脚本・演出の舞台『鋼の錬金術師』を観劇してきました。観劇した公演は以下の2回。

21日(火)18:00~ 一色・和田ペア
25日(土)13:00~ 廣野・青木ペア

発表当初、鋼の錬金術師の舞台を見に行くかとても迷っていました。
というのも、なんだかんだ言って東宝系輸入ミュージカルが大好きなので、若い俳優さんが演じてるキャピキャピの2.5次元(歌わない)で、原作も1回読んだくらいの思い入れの薄めな作品に行って、勢いゆえの粗も含めて作品のテンションに乗り切れるか心配だったからです。

そんなこんなで恐る恐る向かったMy初日公演ですが、結論から言うととても楽しかった。主演のエドのテンションに乗り切れなかったのは最初の30分だけで、物語が進んでいくうちにどんどん舞台上の世界に引き込まれ、いつの間にかエドとアルの2人の心に物語に寄り添っていました。そんなつもりはなかったのに感情移入してお目々がうるうるとしてしまうシーンもありました。
そういえば、アタタミュ観劇を思い出しました。自分の遍歴と何ら接点のない友情熱血ドラマが、石丸さち子の手にかかるとめちゃくちゃ楽しい感動エンタメになるのです。

さて、舞台の感想に入ります。

3時間でだいぶ盛沢山の内容でだったのではないでしょうか。エドとアルの旅路を追うというストーリーにふさわしく、ドライブ感のある進行で、でも大事なシーンが端折られたとか、ダイジェストなんていう感覚はまったくなく、2人に心の動きは丁寧に描かれていた秀逸な脚本だったと思います。

この物語の軸は旅です。そして旅は列車の旅。
冒頭も自己紹介もかねて列車のシーンから始まり、場面転換ごとに列車に乗って移動する兄弟が見られるのですが、この列車の演出もとても舞台ならではの妙が光っていました。
列車を表現するものは扉サイズの木枠が2つだけ。これで列車の接続部のドアをあらわします。Opではハイジャック犯たち相手に列車の縦横無尽に駆け回る兄弟なのですが、それを、木枠を連続でくぐり抜けるだけで、客車を猛ダッシュでハイジャック犯を追って全速力で走っている様を表していました。
また乗客たちの演技もとても個性的で目を惹きました。
列車に乗り込むと名々が自分の座る椅子をもって舞台袖から歩いてくるのですが(この時点でもう愉快)、彼らの旅の列車はごみごみとした3等客室。窮屈そうな座席で新聞をここぞとばかりに広げる紳士に、後ろで話す声にいつ注意しようかタイミングをうかがっているおじさん、帽子を目深にかぶる美女(ラスト)を隣にそわそわしている兄ちゃんなど、とても人間臭くて個性的な乗客たちです。この舞台は、そんな素敵な世界に生きるアンサンブルさんに支えられているんだな。

私は演出の石丸さち子さんのファンになりかけている人間なので、演出の話を少ししますね。

 一番驚いて目を疑ったのは、エドが真理の扉の前に立った対価として左足を持っていかれるシーン。1階席で観たときに、本当にエドの足がつま先の方から虚空に分解されて消えていったのを見て、いったい何が起こったのかと思いました。よくよく考えると、照明を絞るのに合わせてエド役の廣野さんが左足をゆっくり折りたたんでいるのですが、それだけでこんなうすら寒い画になりますか……?見ていて不気味さのあまりぞわぞわと鳥肌が立ちました。

 主人公2人の心に寄り添った丁寧な描写

 3時間という短い尺で主人公2人の心の変化を見せる為に、人の命に焦点を絞った素晴らしい構成になっていたように思います。原作の順番はまるっきり忘れてしまったのですが、大体原作の5巻くらいまで進んだようです。エピソードの区切りごとにさっくり振り返っていこうと思います。

 ① 体を取り戻す方法を探して旅を続ける二人は、綴命の錬金術師ショウ・タッカー氏に対して、研究成果を見せてもらう対価として兄弟2人の過去を語ります。ここでの語り部は、人間だったころのアルフォンス。最愛の母親を失って、「生き返らせたい」という思いを抱いてしまう必然性と、2人が犯してしまった禁忌とその代償を丁寧に描くことで、この物語において「人の命」を人間の一存で扱うことがどんなに重いことで、成そうとしてもできないことなのかというのを教えてくれます。

 ② 2つ目のエピソードは、タッカー氏の娘のニーナとアレキサンダー。父親が研究にかまけていて、毎日一人で遊ぶニーナの姿は、どこか幼いころの兄弟と重なります。兄弟がニーナたちと遊ぶ描写は一瞬ですが、そんなニーナとアレキサンダーに対して、兄弟は心からの親愛を抱いていたんだなと納得させられる描写でした。だからこそタッカー氏の「研究成果」を観たときの2人の絶望と怒りとやるせなさが、強く伝わってきたシーンでした。

 ③ 傷の男との街中の乱闘。国家錬金術師’s+ヒューズ中佐の自己紹介改めびっくり人間ショーです。

 ④ 4つ目は、故郷に向かう途中でマルコー医師のもとに寄り道し、賢者の石への手がかりをしっかり回収しながら、故郷でウィンリーとピナコ婆にご挨拶。こちらのシーンは、兄弟を想い、送る人たちの心が描かれます。

 ⑤ 中央図書館での暗号解読シーン。
 これわざわざシーン分けする必要が無いというのはその通りなのですが、このセントラルに来て、弟が鋼の錬金術師だと間違えられてしょんぼりする辺りの演技は日替わりで、役者さんに任されているんですね。私が見た一色エドは花道から幕を抜けて舞台袖に引っ込んでしまいました。(ちなみにマルコー医師に賢者の石の製造方法を尋ねるシーンで廣野エドは「国家錬金術師なのでお金はあります!」とか言っていましたけど、そのあとご本人がギャンブル狂だと知ってなんだかおもしろくなってしまいました)

 そういえば、この舞台において、「同じことをして数日が経過する」という描写がたくさんあるのですが、この描き方が思い切っていて、それがテンポの良さにつながっているなというこれまた演出の妙を感じました。
 まず、最初に戻って兄弟の回想シーンなのですが、お母さんに錬金術で錬成したものを見せに駆け寄るシーン。毎日毎日新しいものを錬成しては元気に駆け寄っていくのですが、「「おかあさ~~ん!!」」バタバタッ、で一日が始まるのです。これの繰り返しが面白くてとても良かった。
 次が、タッカー氏の書斎で本を読みふけるシーン。こちらも「「今日もよろしくお願いします!」」と元気に挨拶をして、同じ1日が始まります。またまた、中央図書館にこもって暗号解読にいそしむシーン。護衛の隊員の「1日目」「「どよ~~~~ん」」で元気に10日間が経過します。下手にチクタク凝った演出をするよりも、こういったテンションで時の経過を示してくれるのが、この作品には合っていたのだと思いました。

 ⑥ 6つ目は第5研究所で鎧の死刑囚と戦うシーン。しかしここのメインは、エドとアルがそれぞれ投げかけられた、「鎧に魂を定着させられた自分は人間なのか?」という問いです。エドの方は「人殺しは勘弁してくれ!」というように速攻で人認定します。そして、きちんと、自分の弟は人間と認めていることや同じく鎧の死刑囚たちも人間と認めているという、魂の平等のもとに自分の考えが述べられています。一方でアルの方は、自分の記憶も思いもすべて作られたものなのかもしれないという深い疑念に囚われてしますのです。

 ⑦ 7つ目のエピソードは、鎧の死刑囚によって投げかけられた問いに直面して、アルがふさぎ込んでいるところから始まる兄弟喧嘩。そして、ヒューズ中佐の愛娘のエミリアたんの3ちゃいのお誕生日。
 この兄弟喧嘩のシーンが、この物語の一番の山場でオーディションのお題でもあったと石丸さんは言いました。確かに、ウィンリーの「駆け足ーーー!!」という声と同時に始まる兄弟の点対象の追いかけっこと、その後の病院の屋上での思い出話。私はここで気が付きました。私たちはこの物語をウィンリーの立場に立って見ているのだと。強い決意を秘めて誰にも告げず、泣き言も言わずに一人歩み続けるエドと、その想いを理解しながらも、手を差し伸べることは断られ、遠くから見守ることしかできないウィンリー。ウィンリーがアルを怒鳴りつけ、今すぐエドを追いかけるように命じたとき、私は思いがけず目をウルウルさせてしましました。

 ⑧ 最後のエピソードは、リドル・レコルト夫妻の出産立ち合いシーン。(この裏で、ヒューズ中佐が消されているのですが……)この物語で描こうとしたもののもう一つは、錬金術師でない一般の人々が普通に新しい命を生み出して、その成長を祝福している生命の営みだったのだと思います。
 錬金術という夢のような力をもってしても、新しい命を生み出すことも、失った命をよみがえらせることもできない。けれど、錬金術師でもなんでもない人たちの間では、当たり前に新しい命が生み出され、その尊さが尊重され、祝われているのです。先のエミリアたん3ちゃいのお誕生日も、きっと錬金術師ではないヒューズ中佐の愛娘でなければここまでの説得力は生まなかった。そしてラッシュバレーでは、新しい命が生まれる瞬間に立ち会います。そしてそれはお母さんの大変な苦労を伴うものであるけれど、たくさんの人々に待ち望まれ、そして幸福に満ち溢れさせることのできる瞬間だというのを実感するのです。エドは言います。「俺たち錬金術師が何百年かけても成しえなかったことを、人間のお母さんはたったの280日でやり遂げてしまうんだ」

 再び列車に乗り込んで、2人の旅は続きます。
 ホムンクルスの3人も、スカーモ、キンブリーも顔出して、ヒューズ中佐は何かに気づいた様子だけれど、まだまだ何もわからない第一作。次もその次も、兄弟の旅が続くんじゃないかとそんな期待を抱かせるラストでした。制作陣とキャストをそのまま、ぜひ続編を作ってもらいたいな。

感想 ミュージカル憂国のモリアーティ Op.4 @銀河劇場

大阪公演に引き続き、東京公演にも行ってきました。念願の銀河劇場。4年前にモリミュがはここで生まれました。

確保しているチケットは5枚。

4日(土)ソワレ 6列上手端
5日(日)ソワレ 3列センブロ
10日(金)マチネ 3階席上手
11日(土)ソワレ 2階席センター
12日(日)ソワレ 3階立見

見返してみるとなかなか銀河劇場に通い詰める予定ですね。嬉しくなってしまいます。
この感想はひとまず5日ソワレ観劇後に書いています。同じ脚本を観ているはずなのに、公演を見て感じたことは毎公演違うのです。

大阪公演の感想はこちら。

感想 ミュージカル 憂国のモリアーティOp.4 大阪公演 - さとうの美味しいごはん

この後8日ソワレ追加しました。

シャーロックの「捕まえてやる」

シャーロックの”I will catch you, Liam."大阪で聴いたときは、Op.2と同じ、犯罪卿の正体を暴き、お前を逮捕してやるという意味だろうなと思っていたのですが、今日歌詞をはっきりと聞いて驚きました。彼は、「お前の『心を』捕まえてやる」と言っているんですね?

死にたがりウィリアムの心はとっくにシャーロックに捉えられているということはひとまず置いておいて、心を捕まえてやるとはいったいどういう意味なのでしょうか。先を知っているからこそ至る結論かもしれませんが、ここでいう「捕まえる」とは、ウィリアムに自分のことを見て欲しいといった(とっくに達成されている)ことではなくて、ウィリアム孤独な心を救ってやるという意味だと私は考えます。

いったんウィリアム陣営のモランとアルバートに話を戻すと、今作ではウィリアムの孤独は仲間も知るところとなり、そんな彼の孤独に寄り添う仲間たちの思いがメロディーに乗せて描かれています。アルバートにだけは、ウィリアムは罪の意識に苛まれる様子を見せると言いますし、普段行動をともにしているならば、本人が言わずとも彼らには見える部分もあるのでしょう。

しかしシャーロックはどうでしょうか。

仲間に恵まれ、強火の弟もいて、皆に愛されているウィリアムの心が、どうして虚ろを漂っていると思い至るのでしょうか。
それについて、まずシャーロックの「友達」という概念について考えてみます。
シャーロックは、ジョンとの交流を通して友達という概念を学んでいる最中ですが、シャーロックの友達の定義の一部には「同じ目線に立って世界を見る」というのがあると仮定します。豪華客船の螺旋階段で出会って、列車では推理対決に興じ、ダラムでは階級制度を嫌い才能は生かされなければと話し合う。同じレベルの頭脳と英国社会への憂いを持つ、シャーロックとウィリアムという2人の青年はこれまで十分「同じ目線に立って」いたはずです。

しかし、「犯罪卿」と「名探偵」は違いました。

Op.3までの時点では、シャーロックはたとえ義賊だとしても、法律を犯している以上悪であり、法に則って裁かれるべきだとはっきりと言います。犯罪卿の行動原理を理解はしていても、決して同意はしません。そしてきっと、犯罪卿の心には考えも至りません。

なぜなら、名探偵は「人を殺したことのある者」と同じ目線には立てないからです。

さて、シャーロックがこのソロを歌い上げるのは、ミルヴァートンを撃ち殺した後、すなわち、はじめて人を殺した後のことです。ミルヴァートンが殺される理由がある人間だったとしても、殺されていいわけではありませんし、なおのことシャーロックが彼を殺す理由にもなりません。殺しをしないのは彼の信念でもありました。ミルヴァートンを打った後の拳銃が震えていたのも、扱いなれているはずのマッチの火をつけるのがぎこちなかったのも、ミルヴァートンが海に落ちていった後の台詞が酷くぶっきらぼうなのもすべて、彼が踏み越えた一線がいかに大きなものだったのかを示しています。そしてシャーロックのことですから、緋色に染まった自分の身について様々なことを考えたでしょう。そして、もう一度同じ結論にいたるのです。殺すべき理由があったとしても、殺したことに対する罪の意識と苦しみは付きまとうと。

おそらくまさにここが、「名探偵」が「犯罪卿」と同じ目線に立った瞬間です。殺人を犯すものの心が、いかに苦しく、そして冷たく孤独で、裁きを欲するものなのかを理解して、ようやく、ウィリアムと同じ目線に立ったシャーロックは、その心に思い至り、それが冒頭の”I will catch you, Liam."に現れているのではないかと私は思いました。

 

船のシーンの演出

今回、演出の妙が冴えていた曲の一つがここ船に乗ってスモールの乗るオーロラ号を追い立てるシーンだと思っています。(ちなみにもう一つはホワイトリーを人殺しへと誘う場面の曲です。)まず舞台美術の使い方が凄いのです。劇中で、屋根や玄関として使われている二つの高台が、テムズ川を全速力で進む二隻の蒸気船に早変わりします。だから、二つの高台を結ぶ橋は可動式でなければならなかったのか。

さらにもう一つ、曲が始まり、ブルーのライトでホームズ達の乗る船が照らされるまで、ピアノに前奏一フレーズほどの間があります。演出効果上は、船に乗り込み位置につくまでの時間を確保するための暗転なのでしょうが、ここのシルエットが本当に素晴らしかったです。6列上手端。中央から淡く青く照らす背景に、黒く浮かぶ、手すりに足を掛け、前方にスモールの乗る船に見を凝らすシャーロック、コークスに指示を出すレストレード、ワトソンのシルエットが、月夜を思わせるネイビーを背景に美しく浮かび上がりました。

そして、一気に白いライトが正面から二隻の船を照らし、オーロラ号を追い立てる音符の跳ねるメロディーが始まります。曲の躍動感に、二隻の船がテムズ川を驀進している風景がはっきりと見え、シャーロックたちにスモールが追い立てられていく様子もありありと伝わってくる素晴らしいシーンでした。しかし思い出して欲しいのですが、ここ振り付けといえるような大きな動きはどちらにも無く、ただ船の上に3人ずつ乗っているだけなのです。なぜ、ここがあんなに手に汗握る躍動感にあふれたシーンになったのか、いまだにわからないので次回の観劇の課題とします。ただこれだけで終わらせるのもつまらないので、いくつか気づいて嬉しくなった小芝居をメモしておきますね。

まずレストレード警部、吹き矢ごとき無効化できる凄い能力の持ち主だったのですね。私がこれに気づいたのは3回目の観劇からだったのですが、トンガが放った吹き矢はレストレードを襲いますが、彼には全く効きません。なぜなら、彼は左胸に刺さった吹き矢をハエでも払うように、ぺっぺッと払い落としますし(4日マチネ)、その動体視力でもって、パチンと白羽取りを成功させるからです(5日マチネ)。階段を下りてからも何やらシャーロックとやりとりをしているようで、シャーロックに注意されながら財宝をキャッチ&リリースしていましたか?お願いだから小芝居やアドリブをやる時は、目立つところでやってくれ。

感想 ミュージカル 憂国のモリアーティOp.4 大阪公演

ミュージカル憂国のモリアーティOp.4 犯人は二人 大阪公演を見に行ってきました。
2021年9月に突如モリミュの沼に落ちてから1年半、とうとうモリミュを劇場で観劇できる瞬間がやってきました。

 東京のチケットも確保しているのですが、ひとまず大阪公演を観劇しての初見の感想を記録していきたいと思います。

 観劇した公演は2回。
 28日(土) 13:00~ 1階11列下手ブロック通路側
 29日(日) 12:00~ 2階6列センター

 生の劇場は、光と音の圧が凄い!!!!!!!
 あと緊張で心拍数と発汗がやばい!!!!!!!

 

座席について

 1階席と2階席で光の演出の印象が全然違いました。

 中でも、幾何学模様の天井ライトが舞台前方から客席前方までを照らしていて、このライトが本当に幻想的でとても素敵でした。Blu-rayでは全然わからなかった。そしてこのライトの美しさは1階席で観たときが圧倒的に良かったです。まるで天から神々しい光が降ってきているような感覚になりました。

 一方で、ミルヴァートンが221Bを訪問しているときの、シャーロックの部屋を妖しく照らす青とグレーとピンクが混ざったようなぼんやりとした光。これは1階からはほとんどわからず、2階から見て初めて気が付いたのですが、この色の溶けだした感じがシャーロック陣営に漂うやるせなさやミルヴァートンのフィールドのようなものを感じさせ、非常に不穏で素敵でした。

 他、2階席からだと舞台の台の上が見やすかったのが良かったです。特にモリアーティ陣営が屋敷に襲撃に乗り込むシーンは、台上にいる人数も多く、動きも激しい殺陣なのでごちゃっとしてわかりにくかったのですが、2階からだとすっきりと、個々人の殺陣をクリアに視界に収めることができました。

ストーリーについて

 一つ一つが独立した起承転結を持っていて、複雑なストーリー3篇をどうやって1本の脚本に収めるのか?短編3つ、三種の選べるおかず弁当みたいなことにならないかと少し懸念していたのですが、さすが西森さんです。犯罪卿は何者か?というテーマの下でこの難しい3篇を少しも深みを損ねることなく、1つの物語としてまとめてきました。

 中でもテーマソングの前の導入の3曲がとても巧妙で、1曲目の「犯罪卿は何者か?」という主題を投げつける民衆の歌で始まり、その主題に対する答えを、1幕の終わりの合唱で示し、さらに2幕のクライマックスである三竦みのシーンで満を持して、ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ教授の姿を示す伏線にもします。さらに2曲目3曲目でシャーロックとウィリアムのそれぞれのソロ曲でI will、I hopeの思いを示した後、2幕ラストにもウィリアムのソロとシャーロックの独白でもって同じ思いを繰り返します。これらの主題でサンドすることで、本編でアダム・ホワイトリー議員とメアリー・モースタン嬢によって導かれる二つの事件を見る観客の目に、犯罪卿とは?ウィリアムとシャーロックの心理は?という指針をもたらしてくれる上手い構成になっていたように思いました。

場面・曲・キャラクターについて、心に残ったものをつらつらと

ウィリアムソロ「僕の魂を捕まえてほしい」

 先にも述べましたが、ウィリアムのI hopeを深く掘り下げた曲。Op.2や3のゆったりした爽やかなメローディーとは打って変わって、躍動感のあるリズムと音階で、ウィリアムの心の内に隠された激しい思いが吐露されます。そしてこれは言っておかねばと思うのが、音階がきっとめちゃくちゃ難しい!!ウィリアムの絶対領域である高音域で、「僕を捕まえてくれ」と高らかに歌い上げるフレーズがあるのですが、ここの音階の跳び具合と、高さの攻めが激しくて、きっと絶対に声が裏返るように作曲されているんですね。そして、「つか『ま』えてほしい」の声が裏返って、それがものすごく切実で、悲痛なウィリアムの心の叫びに聞こえる。大阪公演は2回とも同じような雰囲気だったけれど、勝吾さんは歌いこなしてしまうのでしょうか。東京公演での変化が楽しみな一曲です。

ミルヴァートンがホワイトリーを人殺しへと誘うシーン

 「ああ~ ああああ~ あ~あ~♪」の不快なダウンスケールを繰り返しながら、ミルヴァートンがホワイトリーが人殺しへと落ちていく様を眺めるシーン。アンサンブルさんとミルヴァートンの側近ラスキンが、ホワイトリーを取り囲み、じりじりと距離を詰めていく中で、ホワイトリーの恐慌が高まっていきます。完全で非の打ち所のない善なる人間であるホワイトリーは、家族を殺されていてもなお、己が人殺しを成すことのハードルは果てしなく高い。そんな彼があっさりと、大事な弟たち家族を殺されたからなんて理由で、目の前の人間を殺してしまうなんて言うのは納得できないというのが観客の気持ちです。しかし、この歌とシーンの中で、その壁を超えることに対する、ホワイトリー自身の心理的葛藤と説得力が、歌と彼の演技で克明に表現されていたようにおもいます。さらに、この歌で誘っているのはホワイトリーの内なる悪魔的な部分の擬人化だと思うのですが、そこにラスキンが加わり、ミルヴァートンが口ずさんでいた不快なダウンスケールを繰り返すことで、そのホワイトリーの恐慌がミルヴァートンによって謀られたものであることをはっきりと示している。2つの描写の複雑な重なりを一挙に表現してのけた素晴らしい演出だと感じました。

モラン大佐ソロ「俺はお前の想いを守る」

 Op.4でについていくつか予想をしていたのですが、そのうちの一つ「モラン大佐の心情フィーチャーソングがある(あってほしい)」が見事的中しました。絶対聞きたかったのでとても嬉しい。ウィリアムの望む結末に対し、自分のウィリアムへの願いや想いとの断絶を感じながらも、ウィリアムの望む結末を叶えようという決意を吐露する一曲です。ここで語るべきはなんといっても音楽についてですが、低音の物々しい和音が重々しく四分音符で刻まれる前奏が始まり、明らかに今までと雰囲気の違う曲が始まったという感覚でした。個人的に浮かんだのは軍靴でしょうか。鈍色の重い影が粛々と歩みを進めているような、鋼の男であるモランそのもののイメージです。そして歌の入りでどんな、荘厳なメロディーが始まるのかと思ったら、囁くような「ウィリアム」から優しいフレーズが紡がれます。あまりに前奏とメロディのギャップが凄くて、驚くとともに、モランの堅さと柔らかさの二面性をふと思い出しました。まさかピアノと歌のテイストで表現してくるなんて、ただすけさんの曲にはいつも驚かされます。

 

アルバート 煉獄を背負い導く者

ウィリアム陣営の中に生まれるすれ違い。ウィリアムの描く終わりを察し、なお彼の意志を尊重しようというアルバートとモランの年長組に対し、ルイスとフレッドはウィリアムに最期までついていくことを望みます。一人一人の心の内を丁寧に描いてくれたOp.4でしたが、特に印象的だったのがアルバートの声でした。4人の歌「心は千々に乱れ」で、彼ら4人がスポットライトに照らされて歩み出ながら、ウィリアムへの思いをめいめいに吐露する歌詞がありましたが、そこでアルバートから出た台詞はなんと「進め」。ミルヴァートン邸襲撃前に目覚めたウィリアムに掛ける台詞も「行こう」でした。
アルバートのソロでは、煉獄を負う覚悟とともにウィリアムを導く歌詞を歌います。ここはアンサンブルさんの演出も素晴らしくて、アルバートが歌う背後で赤い布を旗のように仰ぎ振る動きが、アルバートの背負わんとする煉獄のようにも見え、また、暗き闇の道を行くウィリアムに対し先導する旗のようにも見えました。アルバートの罪の意識の根幹は、ウィリアムに悪の道の一歩目を踏み出す依頼をしてしまったことにあります。これについて赦してくれとは決して言わずに「どうか呪ってくれ」と言うように、アルバートには罪を背負う覚悟があります。ウィリアムに対し、己が犯した原罪を背負い続けていく覚悟が、アルバートの台詞の端々にウィリアムを導くという形で表れているのだと思いました。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a7/Eug%C3%A8ne_Delacroix_-_La_libert%C3%A9_guidant_le_peuple.jpg/800px-Eug%C3%A8ne_Delacroix_-_La_libert%C3%A9_guidant_le_peuple.jpg

 

感想「進撃の巨人 the Musical」

ミュージカル進撃の巨人を見に行きました。

www.shingeki-musical.com
1月15日(日) 18時公演。2023年観劇初めとなりました。
進撃の巨人という作品は私も主要キャラとあらすじを知っているほどの超有名作品ですが、原作やアニメを観たことはなく、全くの初見です。演出や脚本はじめ、出ている役者さんもほとんど知らないのでとても新鮮な気持ちで向かいました。

 

感想

 全体として、脚本やストーリーはよく練られていてわかりやすく、原作や人物を知らない私でもよく楽しめました。またミュージカルと謳う通り、進撃の巨人の世界観の導入や説明が、アンサンブルの方々を中心とした歌と合唱でなされる形で構成されていました。光とスモークの演出との相性も素晴らしく、かつスピーディーな進行なのもあって、幕が上がってすぐに進撃の巨人の世界に入り込むことができました。

 特に、冒頭のアンサンブルの歌唱ですぐに世界観が作り込まれ、アンサンブルの方のお歌の上手さを見て、あぁ、これはきゃぴきゃぴの2.5次元ではなくほんのりグラミュを意識した作りになりそうだぞと期待が持てたのが良かったです。

 アンサンブルさんお歌が効果的に活用されていたと思ったシーンはいくつかありますが、一番印象的だったのは、4年前に超大型巨人の出現によって壁が破壊されて、まだ訓練生になる前のエレンとミカサが、エレンの母を助けに走るシーン。人の波に逆らって走るエレン達と、多くの人間が壁の中で混乱の渦の中逃げ惑っている様子。その混乱が次第に絶望や哀しみに変わっていく様子が女性のアンサンブルを中心とした歌唱をベースに展開されました。
 幻想的な衣装とライティングの中で、女性のアンサンブルの方が舞い歌う中、合間合間にエレン達のストーリーが展開されていったのも印象的です。一人ずつ、淡々と巨人の胃袋の中に納まっていく様が、幻想的だがどこか悲しく、しかし必定の定めのように描かれていました。そして、この美しくも悲しい歌の中でエレン達の話が展開されることで、エレンとミカサ、エレンの母のエピソードは特別なものではなく、あの時壁の中で生まれた数多の悲劇の中の一つに過ぎないのだということも強く印象づけられた気がしました。

ダンス

 歌だけではなくダンスも特徴的な作品だと感じました。

 冒頭の野を徘徊する巨人たちの不規則なダンスからは、人の形をしているものの人間とは全く違う動物なのだという巨人の不気味な様子が描かかれていました。一方で、訓練生や調査兵団訓練や集合の場面では、コンテンポラリーな体操やマスゲームを彷彿とさせる整然としたダンスが観られました。
 二つは非常に対照的で、巨人と兵たちが決して相容れない対立した存在なのだということが意識されているように感じました。また、巨人の不気味な不規則さとは対照的な人間の兵士たちのダンスですが、こちらもすんなりと飲み込むことのできない特徴的で不自然なダンスです。壁の中のエレン達もまた、私たちの知る普通とはどこか違う世界、常識の中で生きていることを表現しているのかもしれません。

舞台セットのはなし

 先にも述べた通り、スモークと光の演出が印象的な作品でした。大道具はとてもシンプルで可動式の壁があるのみで壁の上に登れるようになっているくらいです。
 前半は全面スクリーンを背景に壁や街並みが投影されており、狭い箱の中で、エレン達の話が展開されているようでした。途中、アルミンの歌う「壁の外の話」はスクリーンに彼らの思い描く「外の世界」が色鮮やかに投影されていました。

 他、ワイヤーアクションやトランポリンを活用して、アクロバティックかつ立体的な戦闘シーンが描かれていて、彼らの操る立体起動装置が見事に再現されていました。もう一つ忘れてはいけないのが、巨人の登場ですね。ハリボテで作られた巨人や巨人の手が黒子さんたちによって活き活きと動かされ、巨人VS立体起動装置を操るエレン達の戦闘シーンが描かれていました、物語中盤の、超大型巨人の2本の腕とその間をワイヤーアクションで飛び回るエレンのシーンはとてもすごかったです。

各役者さんの話

 ミカサ役 高月彩良さん

 以前、星の飛行士で演技を観たことがあるくらいで、ほとんど知らなかったのですがとてもミカサの役にマッチしていました。表情は硬いけれど、心は熱く、揺るがない信念がとても伝わ侑さんってきたのと、お歌がとても上手ですね。

 福澤侑さん

 ついこの前DMMTVで拝見した「ミュージカル~黒執事寄宿学校の秘密~」でチェスロックを演じていた時に、光るものを感じて今回注目していた方です。アクロバットダンスが得意な方なのでしょうか。今回もダンスアクションを遺憾なく見せつけてくださいました。原作での役どころはあまり良く存じ上げないのですが、合理主義で上から目線の鼻につくキャラクターを作っていながら、一方でエレンの演説に心を動かされたり、仲間を見捨てることのできない純朴で憎めない素顔が見え隠れする、ちょろかわいい奴とでも言いましょうか。決してメインではないものの、要所要所で視線をさらっていく素敵な演技でした。

 彼が一番光っていたのは、訓練が終わりの日に食堂でどんちゃんさわぎをするシーン、そしてどさくさに紛れてミカサにプロポーズする仕草でしょうか。

 リヴァイ役 松田凌さん

 発表されたときに各所から納得のため息が聞こえたという、リヴァイ役の松田凌さん。まず、常に眉をしかめた険しい表情が、絵に描いたままのリヴァイ兵長でした。ワイヤーアクションを用いた見せ場もたくさんで、2本の刀を携えて、立体起動装置で宙を駆け、巨人を次々と仕留めていくシーンは美しさのあまりため息が出ました。彼の台詞で一番良かったのは、壁の穴をふさぐ作戦のシーン。階段を下りながら、壁を蹴飛ばして足掛けた状態で、下に整列する兵士たちに、先の戦いでの犠牲になった人口の2割についての新意味を語り、憤るシーン。表情や感情が見えないキャラなのかなと思いながら、こういった少ない見せ場でキャラの核となる想いを、観客に植え付けてくるので、そういった面に松田凌さんの役者としての技術の高さを感じました。

少しに気なった点等

演出や演技にはおおむね満足だったのですが、脚本と上演時間にちょっと残念なところがあったので少しだけ書き留めておきます。まず上演時間が少し短いですね……。休憩なしの100分でしょうか。これから作戦開始だ!というシーンで終わったのですが、お話の全体として、クライマックスに相当する盛り上がりが無くて、「え、これで終わり??」という感じが否めなかったです。正直、あ、そろそろ1幕終わって休憩に入るかな?と思ったタイミングで全員でのダンスとロゴが出て終わってしまったので、後半は無いの??という感じ。チケット代もかなり強気なので、そこだけかなり残念でした。

 各要素は素晴らしく、新しい演劇の試みが随所に観られる価値のある公演だと思いましたが、全体としてみたときに、良かったけれど感動するほどではなかったかなという感じ。

PandraHearts 15th anniversaryによせて

望月淳さんにより、月刊Gファンタジーにて連載されていた『PandraHearts』。一番好きな漫画は?と聞かれたら、迷いなくPandraHeartsだ!と答えます。そんな私のバイブルが、今年連載開始15周年を迎え、全国でアニバーサリーイベントを開催します。
15周年おめでとうございます。
そして、完結してもなお、このように愛されて、祝われる作品であり続けていることが実感できて私は今とても幸せです。

さてさっそく先日、ミュージアムに行ってきました。PandraHearts連載開始15周年だそうなのですが、完結してもう7年もたっているのだそうで、そのことにまずたまげました。7年……ですよ。赤ちゃんがもうランドセルを背負ってしまう。完結した頃は、私はまだ学生で東京にも住んでいなかったので、早起きして原画展に行って、最終巻を買うために渋谷を訪れた懐かしい記憶があります。帰りの鈍行列車で、愚かにも最終巻を読みあかし、ボックス席でボロボロと無言で涙を流す不審者を演じていた記憶が蘇ってきました……エコちゃん…………!!!!!!
それからもう、7年ですよ。私も年を取るものです。そして立派な社会人になりました。原画が3種類発表されたときも、あの頃の私ならお財布となけなしのバイト代を眺めてあきらめていたに違いありませんが、今なら普段稼いでるお金で経済を回す時が来た!と来月のクレカでニコニコ一括払いです。なに、夜ご飯が1ヶ月(もうちょっとかな)納豆ご飯になるだけでなんの問題もありません。

さて、雑談はここまでにして、改めて心からの祝福を。
Happy Anbirthday なんでもない日常が、今日も、明日も、いつまでも続きますように。

ひりひりとひとり

2022年6月11日(土曜)、19日(日)千秋楽公演を観劇してきました。

鈴木勝吾さんに興味を持つようになったのが半年と少し前で、その前だったら決して見に行かなかっただろうなというタイプのお芝居です。ストレートプレイの現代劇。

前日譚
 公演PVを観て実はかなりもやもやしていました。
 石丸さち子と東映が贈る、と言われても石丸さち子はよく知らないし、東映は映画作っているところよね。なんだかふんわりとして啓蒙的なキャッチコピーで、自己啓発したい現代人に向けた、自分は高尚な人間で俗な現代人とは違うんだってことを自分に言い聞かせたい層に向けた、チープな教養を感じてしまいました。
 こんな文章を書いている時点で、自分はそっち側寄りで、お買い得で販売されている啓蒙を批判的に捉えることに快感を感じているだけの同じ貉の人間なのかもしれないのだけれど。
 私は、エンターテインメントされに劇場に行き、作品を観ているのであって、決して啓蒙されに行っているわけではない。そう思っているし、これからのエンタメに触れる中でぶれない軸のように保っていきたいと思っている。作品を観たからと言って、そこに込められた作り手の想いを正しく受け取る義務はないし、作品を観たことで何か為になるものを得、自分は作品の作用によって気づきを得られたんだとか、変わったんだとかいうことを発信する必要はない。たかが2時間の映像を観たからといって、人間の何かが変わるはずなんてない。変わっているのだと錯覚することで、2時間をかけて作品を観たことは無駄ではなかったということを、そういった学びを得たのだと自分に言い聞かせる、そんな必要はない。そう思っている。

 

感想

 梅津瑞樹という役者
 この作品で梅津瑞樹さんのお芝居を始めてみましたが、バラエティで普段聞く様子とは全然違った、純朴な演技の人だなと思いました。

 役どころとしては、主演の勝吾さん演じる春夫の二重人格の一人「ぴーちゃん」を主に演じながら、一方で、登場するほとんどすべてのエキストラを一手に引き受けていました。この時点で凄い。

 特に、ナレーションも担当するぴーちゃんから、ホテルの受付のおじいちゃんにくるっと役替えするシーン。「こうして俺たちは、近くのルートインに宿を取った!」ピーちゃんのトレードマークの空色のトレンチコートをひらっとさせながら一回転し、フロントのおじいちゃんに役替わり。受付のカウンターに両手をべたりと置いて、背中をまぁるく曲げて、酷くゆっくりと発声する「……何名様ですか」をみて、一瞬で梅津さんの虜になってしまいました。
 役のふり幅とか、変わり身の早さはもちろんなのですが、それだけではありません。ただナレーションを喋っているだけのぴーちゃんのときも、独り言のように喋る受付のおじいちゃんの時にも共通する、演じているときの言葉にしがたい魅力のようなものを感じました。
 

 お話について

 脚本の石丸さんや主演の鈴木勝吾さんが繰り返し、本当に届けたい物語だと言っていた。その届けたい思いとは、最後の夏子と春男の語りに込められているんだと思う。人と世界はすべて、遠い国の出来事も、壁を隔てて会ったことのない隣人もみんな繋がっていて、一人ではないのだといういうこと。そして、様々なことがままならず、排除されてしまう現代の世の中でも、不要なものやいらない人間などないのだということ。

 公演が次々と中止になるなど、世の中のままならなさに真っ向からさらされている演劇業界の人にとって一番伝えたいメッセージはまさにそれなのだと、しかと受け取りました。

 お話はいろいろなエピソードが絡み合っていて、それ自体が、上のメッセージを暗示しているようでした。
 春男は悲しい過去を持っていて、演劇仲間と甲斐甲斐しい彼女もいるけれど、自分はずっと孤独だと思っている。自分を理解しているのは自分だけで、世界はとてもうるさい雑音に満ちている。自分の心の中に住んでいる西郷さんとぴーちゃんが話し相手だけれど、彼らは自分自身ではあるけれど、でも自分を無条件で受け入れて認めてくれるような優しい人間ではないみたい。時には自分自身が、自分を受け入れることができないように。