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感想・考察など

【モリミュOp3】 シャーロックの『哀しみ』と真実の非万能性への自覚

 モリミュOp.3の感想という体裁で、また見えないものを見る。

 

ウィリアムの《will》と《hope》

  Op.2の鑑賞時「I will / I hope」は素敵なデュエットでしたが、最後はテーマ曲の合唱を聞きたい……!という強欲な気持ちでいたので、今回のOp.3ではデュオからの大合唱という欲張りセットで幕が下りたときはとても嬉しかったです。

 また仕掛けも盛りだくさんで、Op.1、Op.2、Op.3を通してキーワードのように散りばめられている、WillとHopeが今回は2人とも同じフレーズの中で登場します。

 《Will》と《Hope》だと、感覚的に《will》の方が生に立脚した感情だと思っています。ですから、Op.2においてシャーロックが《will》を歌うのは生への眼差しの象徴になっていて、一方で生の反対へ目を向けるウィリアムが《hope》(英語の仮定法のニュアンスをイメージしています)を歌うには、2人に非常にマッチした割り振りだと思いました。

 それが今回は、2人とも 「I will」で始まり「I hope」で終わる同じフレーズを歌います。ここで、この対極のような動詞2つの間にいったいどんな感情の変遷があるのか?とまた見えもしない幻覚を見ようと頑張っています。

 ウィリアムの方は、「死の定め」というものが決して自らに課した罰や責というだけでなく、自身への救いのようなものだと捉えて乞い焦がれている、というのは原作のフレッドへ向けた台詞からも裏付けられているように異論はないのですが、果たして《will》と(定めを全うするという決意)《hope》のどっちが本心なのでしょうか。おそらく両方とも本心であることに間違いはないのでしょうが、「自分は死ななければならない」「死の定めを変えることはできない」という彼の感情は、迷い・あるいは迷いを振り払おうと自分に言い聞かせている嘘であるかのように私には聞こえてしまいます。

 きっとウィリアムの中には、救いを切望する心がまずあって、でも自分は救いを求める権利のある人間ではないという自責から罰を望むけれど、彼にとって罰を受けることが救いになるので、罰としての死を受け入れることはできない、といった矛盾がある。その矛盾を「死の定め」を逃れられない業のようなものに押し固めることで、死を救いだと思う自分の感情を見なかったことにして、救済を望む心を黒く塗りつぶしてようやく、「死」を最後のゴールに据えることになんとか説明可能な体裁を保っているように思います。

 とすると、最後の「美しい世界への 僕の死への道 I hope」(文字にするとなんちゅう歌を歌っているんだという気がしてきました)の《hope》は黒く塗りつぶしきれなかったウィリアムの本心の欠片のようなものだと思うのです。

 もう一曲のウィリアムの心情ソング「孤独の部屋に」は、「命捧げると 誓った日に この心の部屋の時は止まった…… この身には どんな音も 届かない」という歌詞から始まります。これも上記の解釈でいけば、これは決して本心の吐露ではないと考えられます。どんな声も「届かない」ではなく「受けとってはいけない」という自身の枷を自覚するための言葉なのではないか、と。

 最初に戻ると、歌詞の《 will 》から《 hope 》への遷移は、ウィの心のほころびととらえることができそうですが、そういえばOp.2は高らかに I hope していましたね。いったんこの議題は中断です。

 シャーロックの話が本題ですからね。

シャーロックの『哀しみ』について

 シャーロックのこの歌の中で個人的に聞き逃せない歌詞が「ここが最後のはじまり……哀しき決意の」(これは最初空耳で「悲しい帰結への」だと思い込んでいてそれはそれで悩んだのですが、ブックレットを見たら全然違う歌詞でした。でも解釈はまったく解決されなかったので、議論は続行です)。

 たとえ義賊であったとしても(それがこの荒んだ世界で唯一自分と同じ地平で語らうことのできる友人だったとしても)、彼を捕らえ断罪するつもりだ、というのが哀しき決意であることにまったく異論はないのですが、この「哀しき」という形容詞に違和感を覚えます。いったい彼はなぜ「哀しい」と断定しているのか、まるで未来が見えているようではないですか。いつもの自分の一人称の感情ではなく、物語の語り手のような三人称視点からの形容詞のようではないだろうか?

 ところで、モリステの北村シャーロックは、出会い頭に「すべてを終わらせる男だ!」という宣言をしてくなんとも物語を盤上の中からひっかきまわす意志に満ちみちた、ともすれば盤上の外からの視点を牧ウィルから奪い取ろうという野心溢れる奴なのですが(勿論これも幻覚です。最近思うのですが、北村諒くんは黒目が大きくってわんこ感に溢れててかわいいですね)、こちらの平野シャは物語の中からしか世界を見ることができない、世界に生きる駒としての立ち位置を徹底しているように思います。ショーをつくるモリアーティ陣営は常に物語をやや俯瞰するので、先にある「悲しみ」も目に入っていておかしくはないですし、Op.2、3とストーリーテラーとしての存在感を増してきているジョン=ドイル氏や、せっせと次の劇の仕立てに向かうミルヴァートンも少なくとも、物語の少し先までを外から俯瞰する視点を持っているように感じます。一方で、それとはまったく対照的に、物語の中に囚われて、俯瞰する視点を得ることのない印象を与えるシャーロックはいったい何を根拠に「哀しい」と表現したのでしょうか。

 幻覚① Op.2でシャーロックの信念として語られていた「科学は差別しない」「どんなありえなさそうなことでも それが真実なんだ」という言葉に対する、初めての迷いとその迷いに対する抗いの感情のようなものがあるのではないか。その迷いを経て、己が信念である真実が決して正義とならない可能性に気づきつつあるのでないか。

 シャーロックはこの時点で、犯罪卿が義賊であると確信を得ており、かつ犯罪卿がウィリアムであることの可能性を否定することができないでいます。それどころか、ウィリアムが犯罪卿と推理するに足る情報を得ている気がします。「ひとつひとつ可能性を潰していけば……」と歌うシャーロックにとって謎を解き明かせないというのは可能性をひとつに絞りきれていない状態を意味すると思うのですが、シャーロックは確実にリアム一択まで絞りこんでいますよね。

 やや決めつけ過ぎるきらいがありますが、なんてマイキーとウィリアムに揃って言われ続けてるからすこし反省してるのかしら。こんな心境の変化ちょっとくらいあってもいいですがこれは本命ではありません。

 おそらくシャーロックは、ウィリアムを犯罪者だと断定してしまうことで、2人の関係が不可逆的な方向へ進んでしまうに違いないことに気づいています。だからあえて、最後の一手を推理することをしない。あるいは必要十分以上の根拠を集めることに手段目的化することで、その事実から目をそらしていることを自覚しないようにしているのかも……なんて。

 2人の関係性もまだ未定義なのですが、それはいったんおいておきましょう。

 また、Op.3でシャーロックは初めて「都合のいい嘘」をつきます。(ちょっと待ってほしいのですが、ひょっとしてひたすらに「まこと」をテーマにゴリ押してきたモリミュに「嘘」が対立概念としてOp.3で挿入されてきていたりしますか?なんたって次のショーはというか、ショーと言ってる時点で虚構だったりしませんか?モリミュのテーマじゃなくてMtPの話かもしれませんが我ながら良い幻覚です)嘘というのは、科学が必要だと言い張り、真実を解き明かすべしとするシャーロックの信念とは勿論対局に位置するものです。また「都合の良い」という言葉も、ある種真実を明らかにしたところでどうにもならない社会への諦念や階級社会を見てみぬふりをし身分の差を理由にろくな捜査をしない犯罪捜査を支える言い分です。シャーロックにとって、これが忌むべき考え方でしかなかったことは容易に想像できます。

 それを今回「都合が良い」嘘が最善の選択になりうることに気づき、同時に真実というものは決して万能ではないという事実をつきつけられました。これがシャーロックの信念を揺さぶり、揺るがせる。今回、ジャック・ザ・リッパー事件で都合の良い嘘をつくという選択をしたのは、間違いなく彼にとってひとつの決意だと捉えられます。ではその延長線上に、たとえ〇〇であったとしても犯罪行為を行っている以上彼を捕らえ断罪するつもりだという決意があるとすれば?まだ見ぬ犯罪卿の真意はつかめず、シャーロックの行動と選択が織り込まれているという事実がさらに自身の決断を惑わせる。そんな中で、都合の良い嘘がときに最適解となり得ることを知って、真実を暴く以外の最良となり得る選択肢を得た彼が、それでも信念を貫いて真実を暴き、断罪を遂行する。その己の決意と行動の先にあるものが決して最善とも正義ともならない可能性への自覚。この自覚が彼に『哀しい』と言わしめたのかもしれません……なんてね。

 

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