さとうの美味しいごはん

感想・考察など

ミュージカル 北斗の拳

「ミュージカル北斗の拳」東京初日を観てきました。

初演の口コミ評判に気になってはいたものの「いや私、北斗の拳とかいう汗臭くって、熱血必殺技バトルものとか絶対好きにならないジャンルだし……」と見送っていたのですが、先日鈴木勝吾さん主演の「ひりひりとひとり」で演出家の石丸さち子さんを知り、その繋がりでひょんなところから再演が決まったチケットを確保しました。

 観劇自体が約2ヶ月ぶりで、久しぶりに前の日からワクワクしながら劇場へ向かいました。

感想

凄かったです。期待通り、いや期待以上の楽しさでした。
例えば仮に、北斗の拳の原作はどでかい骨付き肉をオーストラリアの野外BBQで豪快に焼いた塊だとしましょう。しかし、歌の上手い女性陣とダンスとアクロバットの上手い男性陣で演じて、石丸さち子が味付けして、作曲ワイルドホーンの皿にのせるとなんだかお洒落でカジュアルな高級フレンチになる。そんな感想をどこかで目にしましたが、言い得て妙だと思いました。
 同じジャンル(?)だと、先日宝塚雪組のシティ・ハンターを観ていたので、そんな感じのドタバタラブ「コメディ」になるのかなと思っていたのですが、全然違いましたね。いやこれはレ・ミゼラブル側です。原作を知らなくても楽しめる脚本で、でも知っている台詞(あべし!!)は大真面目に入ってる。とても北斗の拳とは思えない世界観で、でも北斗の拳を見せてくる凄い作品でした。

 特に素晴らしかったのは、主演の大貫さんのダンス。殺陣からも身体能力の高さはわかるのですが、殺陣以外のコンテンポラリーなダンスや大仰な構えの所作が素晴らしく美しかったです。1幕ラストのソロのコンテンポラリーは初めて見る私でも、凄いと感想しました。また、南斗の城で斃れていった者たちの魂とシンクロして踊るシーン(伝わりますかね)のダンスがとても美しかったです。漠然と、アクロバティックバレエダンサーだ!と思いました。

■The Herb Dining 神戸布引ハーブ園

少し前に神戸に遊びに行ってきたので、久しぶりにその時に食べた美味しいもののメモです。

■The Herb Dining 神戸布引ハーブ園

新神戸駅からロープウェイですぐの、ハーブ園内のレストランです。ハーブ園と食用花をたっぷり使った前菜盛り合わせ(タワー!!)とメインのお料理のセットランチです。

ランチで確かお値段2500円ほど(もう少し高かったかも)。私は迷わず白ワインも追加してしまった。

前菜は凝ったものが多くてどれも初めて食べる味で楽しく、とても美味しかったです。

・そら豆のパンナコッタ

・イチゴとリコッタチーズの何か

・人参のスイートポテトのようもの

・エビと伊予柑のマリネ

・お魚のトマト漬け(もっと洒落た名前でした)

などなど。全体的にハーブの効いた癖のあるお味で、周囲に散らされているのは全部食用花で花びらをちぎってパラパラと振りかけ食べます。白ワインとすごく合う!とても美味しかったです。

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メインのお料理はシラスとケッパーのトマトクリームパスタ。もちろんハーブたっぷり、お花もたっぷり添えて。あとは同行者が注文した豚肉のマスタードソテーも味見させて貰ったのですが、こっちが今まで食べたものの中で上位にランクインする美味しさでした。脂の乗ったポークソテーとハーブの癖のある苦味の組み合わせが(ワインによく合って)最高です。

お店の席数も広くてゆったりしていて、ハーブ園を眺めながらお食事が楽しめます。とっても贅沢な気分です。

頼めなかったメインメニューを制覇したいので、あと7回くらい来ようかなと思います。

 

雑文 1

人生は二度は無いのだからできるだけ楽しく生きていきたいじゃない。

私は長らくそう思って生きてきたし、それが正しいのだと、少なくとも他の考え方よりもベターだと信じていた。自己の行動とか、考え方とか、そういった内的な要因で苦しんでいる友人も少なくなかったが、私はそういった彼らに対して、ほどほどにすればいいのにバランスを取るのが苦手なんだろうなといった感想を正直抱いていた。今考えると、あまりに勿体なく、あまりに失礼だった。

苦しんで生きていくのも悪くないと思えるようになりたい。ある程度大人になって、苦しみに対する解像度が上がったと思う。苦しみという漠然としたひとくくりの感情に対し、いくつかのスコープでもって分節化してとらえることができるようになったのだと思う。分節化が適う以前の私が、内的要因による苦しみというものをどうとらえていたかというと、思いつくのは2つだ。まず、物事の捉えよう、すなわち悲観的なものの観方をするがゆえに自分の手の届く世界に対して、あるかもしれない可能性に過ぎない失望を抱き、これもまた確定していないままならなさを感じ続けるこの思考の傾向が自己に苦しみをもたらしているというのが一つだ。もう一つは、自己の相対的な優先度の低さに起因する不幸のことだ。周囲に優しく、利他的にを心掛けるあまり、自分の身と精神を削るような行動や思考をとり、それゆえに苦しみに陥る。これに対しては、ほどほどにすればもっと生きやすいだろうに、と全くの善意で休憩を進めていた。

最近得た3つ目の苦しみの分節だが、これは苦しみとはすなわち悩むことである。悩むとは思考の混乱であり、思考とは世界の解像度を高くし、世界の描画を深化させる行為である。まだこれを内部化するには時間がかかる。けれど、苦しんで生きていくのもいいのではないかといつか好意的な意味で使えるようになりたい。

話がうまくなりたいと常に思っている。そのためには練習や努力も多少なら厭わないと思うくらいには切実にそう思っている。しかし最近思うのだ。
私はそもそも話す内容を持ち合わせていないのではないか。
話がうまくなる技術の練習よりも先に、アウトプットして、自らの思考の浅はかさを見つめなおし、意識して思考を深化させる時間が必要なのではないか。

他人と話さないと、思考は深化しない。自らの思考の核に気が付くこともできない。
でも人と話す技術が欲しい。そんな堂々巡りを抜け出せる日は来るのか。

ウクライナの情勢が毎日何もせずとも入ってくる。
私の周囲には大学時代からのコミュニティがあり、歴史学や民族性に敏感な友人が多い。そういった彼らが盛んにウクライナについて議論をしたり、気を病んだりしているのを見て、一方で私はまったくそういった感動を覚えず、なんて冷たい図太い人間なのだろうと思ったりした。仮にも東欧のナショナリズム史を研究し、日々東欧の民族舞踊を踊り暮らしていた4年間だったというのに自分はそんなものなのかと。

最初の4日間くらいの話だ。
今日唐突に、いま世界で起こっていることが、自分が論文で書いたものと同じだということに気づいた。突然世界が他人事とは思えなくなった。恐ろしいくらいの変化だ。

従属的な地位にいる民族が支配的な地位の大国に対して蜂起を行なったとき、その暴力性は希釈され、むしろ英雄のように讃えられ、その憐れな地位への同情から支持を集める。そして、同じく従属的な地位にいる別の民族は、蜂起を実行した彼らを、なんのルーツの交わりがないにもかかわらず我が同胞と称して支持をする。この支持には別の意味があり、彼ら自身の支配者に対する間接的な非難と、蜂起によって集まった彼らの支持に自分たちの従属的な境遇に目を向けさせようという意図がある。というのが私の論文の主張であり、これを1963年のポーランドアイルランドの史料をもとに論じた。

ウクライナの国旗を掲げ、アチャラの民族舞踊をNYシティで踊るジョージア人の映像を見て、私が研究していたのはこれだと思った。同時にひどくショックを受けた。私は1863年の遠い過去だと思って歴史学を研究していたんだと思う。遠い時代の戦争とそこで交錯した歪な正義を読み解くのは楽しい。ファンタジー小説のページをめくる手が止まらないように、先が気になって仕方がない。
だが、これは今起こっていることで、私が紙面上で楽しく論じていたことも、実際に起こっていた悲劇なのだった。そう気づいた。

 

 

 

天使について(鈴木さん・石井さん)

前日譚

鈴木勝吾さんが出演される2人ミュージカル。先日公式Twitterから稽古動画が流れてきまして、そこの勝吾さんのお声に導かれるままにチケットを購入していました。決め手はなんといっても、這いつくばって歌っているお姿(0:50~から見られます)。

相変わらず透き通ったの少年の主人公のようなお声も健在ですね。

2月26日(土)13:00~ 鈴木さん/石井さん
3月5日(土)17:00~ 鈴木さん/鍵本さん

の2公演の観劇(予定)です。最初は日程の都合で3月5日の回を取ったのですが、開幕直前のLive配信を観て石井さんと鈴木さんの関係にほっこりしてしまい(勝吾さんは確かに色白ですよね)、ぜひこのお二人の回を観たいと観る前からチケットを追加してしまいました。あと石井さんのお声がかなり低重心で好みで、ふたりのお声でハモったらきっと癖だぞ……という己のセンサーがはたらいたとかなんとか。いつ公演中止になるかわからないご時世ですから、公演は早いものを確保しておくに越したことはないのです。ここのところ楽しみ過ぎて1日に10回くらい稽古動画を見返しています。公演が決定したばかりの頃は、PVや公式サイトやビジュアルカットの雰囲気から食指が動かず、今回は見送りかな~と言っていたのに何が起こるか本当にわからないものです。初日直前&公開ゲネプロで勝吾さんの体調不良を耳にして気が気ではありませんでしたが,無事おふたりの初日が開いてよかったです。

2月26日(土)13:00~ 鈴木さん/石井さん 回

行ってきましたよ!

稽古映像でテンペラって何?ってなって調べて行ったのですが、天ぷらのことだそうです。というの半分冗談で、(半分は本当です。卵を糊代わりに使ってい固めるという意味で語源は一緒だそうですよ🍳)テンペラテンペラ〜♪ ブラーヴァ〜 ブラーヴァ! フレスコ〜 フレスコ〜♪ ブラーヴォ〜 ブラーヴォ!

フレスコ⇒スピード命。古き良き伝統画法。
テンペラ⇒スピードよりクオリティ重視の新画法。しかし重大な欠点あり。

という知識さえあればお話の伏線まで対応可能でした。

✯お話に沿って好きなシーンの長期記憶化のターン

 最初に、石井さんのルカが天使について解説しつつコミカルに登場します。最初〜4曲目程まではルカの独壇場です。石井さんがカンパニーの中で最年長で若い子達に兄貴と呼ばれていたので、さぞかし大人な味わいのあるお芝居が観られるのだろう……(ニヤニヤ)と思っていたら大誤算でした。コミカル★ルカ、可愛いというか狙ってボケ倒してやりますよの、石井ルカ劇場でスタート。

「絶対に失敗してはいけないからな、慎重に……」
「君は画家か?」「本人確認、チェック(真顔)」 
「君は助けを求めていたか?」(コクン) 
「助けを求めていたのは君だな?」「ダブルチェック(事務的だ)」

リアル現場ネコを真顔でやってる天使がおるぞ………とここでもうニヤニヤでした。当初想定していたニヤニヤとは別ですが、まぁ些事です。あと稽古映像ちょっと入っていた「どこなんだ〜♪」と「僕は〜天使!天使なんだ!」もコミカル石井ルカナイズされていて最高でした。最高だったのにどのように最高だったのか覚えていない!悔しい!次の曲も「少し驚くなりしてくれないと次の曲が歌えないじゃないか!」といってオーディエンス無しで歌い始めるのも、(こういうのをぶち込んでくるあたり韓国っぽいっというかネット一人称小説の流行の脚本みがありましたね)とても楽しかったです。

 最初は勝吾さんはジャコモでの登場です。勝吾さんってこういう無邪気な子供の役を演じるときの悪意が無いゆえの残酷さ、ちょっと小憎たらしい子供の感情のお芝居が細かくて毎度どきどきします。そして、その小憎たらしい子供と目をキラッキラさせた無垢さの振り幅を同じ役の中に成立させる技術が本当にすごいなと思います。今回のジャコモは、ルカ対しては突然話しかけてきて偉ぶってる知らん人に対する無遠慮さ、いっぽうで天使を見て話をした感動を人に伝えたいと爆発させているときの透き通るような無垢な感情(勝吾さんのディズニーもかくやという曇りのない主人公ボイス)、そしてダ・ヴィンチ先生に対する反抗期の素直じゃない発言……これら3つを1つの役に並立させていてやはりさすがです。1曲目のルカの「フレスコ~♪」に対するジャコモの「ブラーヴォ~♪」のこう言っておけば満足するんだろ感の演技がまた最高でしたね。また、稽古映像でどちゃくそセクシ~だな~!と思って期待していた「ジャコモもしや、狂っちゃった?(ウインク)」もバッチリ見てきましたよ。お母さんの物真似だとはまさか思わなかったですが、セクシーさの前には些事です。

 この辺りで石井さんがダヴィンチ役で登場するのですが、存在が完璧にダヴィンチでしたね。さっきまでのコミカル新米天使とは纏う雰囲気が一切変わっていました。そしてこちらで期待していた渋い大人の演技も調達可能。10分でチケット代のもとは取りました。

 勝吾さん演じるヴァレンティノは初登場はやや遅めでルカの回想シーンでした。ルカがヴァレンティノの過去を語る歌で、おそらく幻影として舞台の3階から登場します。あまりにも高い所、視界の外からの登場で、最初歌声のみ降ってきたのかと思いました。まさに降臨ですね。舞台の3階?と前情報で観たときにはてながいっぱい浮かんだのですが、文字通り舞台の3階です。

 舞台装置の話をしますが、1階はシンプルにキャスター付きの椅子が1つとでっかい梯子(脚立)が置いてあります。舞台の背景は全面スクリーンになっていて、舞台の背面に渡り廊下のような形で2階があって、額縁のような装飾で四方が囲まれたデザインになっています。そして額縁の上も実は立ち入れるように柵がついていてそこが舞台の3階というわけです。演出は主にスクリーンを全面活用してデジタルに仕上げられていました。キラキラした概念、炎の概念みたいな現代アーティスティックな背景が多かったですね。また、2階の渡り廊下が額縁になっているのもみそで、ここが屋根裏の作業部屋になったり、壁画になったり、ミラノの路地になったり。あと、1階においてある脚立を使って2階に入れます。ジャコモが2階の自室に上がるイメージでしょうか。3階はヴァレンティノの専用席で、天井とかなり近くて見上げる形になります。また、ライトも白一色とスポットが真上からくるのが一つあるくらいで凄くエッジと陰影の効いた、ノスタルジックな写りになります。生なのに写りというのも変な感じですが、実際にそんな感じで、それがヴァレンティノの登場シーンや心情描写にすごくマッチしているように感じました。

 さて、ヴァレンティノの登場シーンは、ルカとヴァレンティノのデュエットです。デュエットといいますか、ルカが主旋律を歌い、それにヴァレンティノが上からヴェールをかぶせているような感じで、勝吾さんのお声にも紗とエコーのかかった効果が入っていました。同じ時代・場所にはいないという回想をうまく表現されていました(欲を言うと全体的にマイクの調整強め音小さめでミュージカル本業のお二人の良さを殺してる節があったかも)。

 ルカとジャコモのシーンが一通り終わると、最初に時間軸が巻き戻って、ヴァレンティノとダヴィンチのシーンになります。ルカが間違えてジャコモの前に登場している間に、ヴァレンティノはしっかりとダヴィンチを見つけて彼の前に姿を現し、ダヴィンチに絵を描くのをやめさせることに成功しています。コミカル☆ルカの演じたダブルチェックも「どこなんだ~」も再演(お手本)を見せてくれるのですが、しかし本人確認とダブルチェックはするんですね。天使の導きマニュアルに書いてあるのかしら。このダヴィンチの絵を描くのを留める描写も歌で表現されているのですが、天使にいいように操られてばたばたと走りまわっているダヴィンチも、指揮者がタクトを振る振り付けで彼の動きを操る勝吾さんもスピード感があって素敵でした。勝吾さんは片手で軽くけだるげに遊びのある表情でタクトを振るっているのですね、ルカとの経験の違いを見せつけていきます。また最初の数シーンと数ナンバーは再演してくれるので聴きのがしてしまってもここで補完できますよ。

 さて、この辺りからお話がメインストリームにのって複雑に展開し始めるのですが、いよいよきました!私がこの公演のチケットを2枚も買ってしまった原因ともいえる、ヴァレンティノ勝吾が這いつくばって歌うシーン。結構な大ナンバーで、始まった瞬間にこの曲だ!とわかったものの当該シーンはなかなか訪れずドキドキそわそわしてしまいました。おそらくこのストーリーのキーポイントかつ複雑なヴァレンティノの過去と心情についての語りなのですが、少し整理すると、かつては主に一番に愛されて寵愛を受けていたヴァレンティノでしたが、ある人間の女性と恋に落ちてしまう。1000年か2000年かそんな近い過去の話です。人間と恋に落ちることは天使にとって禁忌であり、ゆえにヴァレンティノは以来堕落天使としてルカの使命を邪魔し続けている。また、ヴァレンティノを寵愛していた主はヴァレンティノが愛する人間のために流した涙に嫉妬して、彼から涙を奪ってしまい、以来ヴァレンティノは泣くことはできず、笑うことしか、いや、笑うことも難しいんだ……といった感じでしょうか。勝吾くん演じるヴァレンティノはこの、涙を封じられた残酷さと生きる世界が色の無いということに対する嘆きを歌で表現されており、この1曲は期待通り、圧巻の歌声と演技でした。

 ヴァレンティノはダヴィンチに絵を描くのをやめさせるために現れたはずですが、ヴァレンティノは美しいものが好き。彼の絵にほれ込み、彼の絵を自分のものにしたくなります。そしておそらく動機はそれだけではないですね。ダヴィンチに自分の肖像画テンペラ画で描かせることになります。この辺りは私の読解力が足りず推察多めになりますが、ヴァレンティノはジャコモに対して何やら強い思い入れがある様子です。

 ネタバレ考察パートは後に回したいので、先に好きなシーンの紹介を終わらせてしまいましょう。石井さんダヴィンチの「僕には絵はわからない」ソング。さっき大人な渋い演技が見れますと言ったのはどなたでしたでしょうか、嘘つきですね。ダヴィンチも十分お茶目さんです。天才芸術家、そして解剖学や機械、都市設計など様々な分野で才能を見せたダヴィンチが、僕には絵はわからない。でも描いてしまうけど、お金を払って買ってもらうのは恥ずかしい、倉庫にしまわれると死にたくなる、気づいてることを指摘されると死にたくなるし、気づいていないことを指摘されると死にたくなる!と元気に悩ましく歌いあげます。歌詞も、歌い方も十二分に天才の葛藤を表現しているのに、石井さんのお茶目さと天才ゆえの子供じみた感情はどこから湧いてくるのでしょうか。聞いていて、この相反する感情が同じフレーズに乗せられている技術に、(曲という単位ではなく、同じ音単位に載ってくるんですよ、反対側から生クリーㇺが飛び出る哀しいシュークリームにならないのが不思議です)訳が分からずすごい以外の言葉がありません。

 中盤~後半のシーンはネタバレ考察パートにとばして、最後の2曲&カーテンコール(?)を先に述べますが、天使2人がアイドルをしておりました。私はお恥ずかしながら次元を問わずアイドルライブへの参戦歴はなく、ペンラを振った経験もないペンラ処女でありますが、銀色のお衣装で背中合わせで振りつきで踊ってる姿はアイドルでございますわよね……?お二人を年齢高めのお二人と認識していたので、特に石井さんこういうこともするのか、勝吾さんすごく新鮮だ……踊ってる、と目をぱちぱちさせて焼き付けておりました。すごいな、さっきまであんな深刻そうな顔で演技していただろうよ……ふり幅すげえ、歌のクオリティもすげぇ、いや客席もあんまり慣れていない雰囲気があって、ペンラ処女は私だけではない……ばれていない……と言い聞かせておりました。各人のイメージカラーはお衣装にポイントで入っていたようなのですが、ライトが当たると勝吾さんのお腹のあたりのピンクの生地がキラッと輝いて素敵でしたね。客席のペンラ率は1割未満かな。あとは勝吾さんの「本日は誠に!」もさすがの腹式呼吸発声で健在でした。これを生で聴いたのも初めてだったのでとても嬉しいです。しかし、石井さんがさらっとしていたので、勝吾さんもあれっという感じでしたね。なんだかようやくいつもの勝吾さんの雰囲気を垣間見られた気がします。

 そのまま規制退場アナウンスに従って、興奮冷めやらぬままこうして思いの丈を書き散らしている次第でございます。お付き合いいただきありがとうございます。

☆解釈ネタバレ考察パート

(読解力不足ゆえ、随所に推察が入ることを最初にお断り申し上げます)

 ヴァレンティノはジャコモに対して何やら思い入れがある様子とありますが、それはほぼ間違いなくかつて愛した女性の存在が理由でしょう。ジャコモはダヴィンチが道端で肖像画を描いた女性の遺児として引き取ってきた子供だということが明かされます。(ダヴィンチいわく、お酒を少し飲んでいたんだそうで、酒の勢いだと言い訳しています。ここも子供じみていて茶目っ気がありますね)そして隠してはいますが、ジャコモは実は女の子、そしてヴァレンティノがかつて愛した女性ジャコミナ(?)と奇しくも同じ名前、よく見れば面影も……?

 ヴァレンティノはジャコミナにかの女性を重ね、ジャコミナに自分の姿を見て欲しい(思い出して欲しい?)と願います。しかし、天使は一人の人間の前にしか姿を現すことはできません。そこで考えた末に、ダヴィンチに自分の姿を画に描かせることにするのです。それも、素早くかけるフレスコ画ではなく、時間こそかかるが繊細なタッチで描けるテンペラ技法によって限りなく本物の姿に近い自分の姿を見せようと。これは愛ですね、自分の存在に気付いてもらいたい、でもそれ以上は望まないという謙虚に見えて実に固執した愛ですね。(愛ですよナナチ……)しかし、ジャコミナは視力が徐々に衰えていく病を患っていました。(だから、ダヴィンチは冒頭で君は目が悪いのか!?という台詞を言った申し訳なさそうな顔をしていたんですね)

 そんなジャコミナの不幸に対して、ヴァレンティノは早く絵を完成させねば一生見せることは叶わなくなってしまうという焦り、そして絵や美しいものが一等大好きな人間なのに目から光が奪われてしまうなんてなんて残酷なんだと嘆き悲しむのです。そして、涙を奪われて過ごしてきた月日を経て、奪われることの苦しみを一等理解しているからこそ、ジャコモがこんな目に合わなければならないのかという哀しみを舞台3階で歌い上げます。またここでヴァレンティノはさらっと「僕はもう慣れたが……」と言うんですが、慣れることをジャコミナにはさせたくないという、優しさも垣間見えます。(堕落した=人間の感情「愛」を得てしまったみたいなニュアンスなんでしょうか。しかしヴァレンティノは、白い鳥の件と言い、彫刻家や芸術家に片っ端からほれ込んでいることといい、なんともなへそ曲がりな博愛主義者?いえ、恋多き男ですね)

 また歌の中でジャコミナを「水面にうつった自分の姿」と称しているのですが、自分とジャコミナが似ているというのはどういう意味なのでしょうか。同じ奪われる苦しみを味わう者として似ているという意味なのか。それともかつての純粋に美しいものを愛した自分姿と、光が消えゆく世界で美しいものに感動するジャコモの心が似ているということなのでしょうか。

 ほかにも不思議なことは多くて、なぜかつて愛した女性に重ねたはずのジャコミナに自分の絶望を投影するのでしょう。ひょっとして、ミラノの路地で亡くなった女性がヴァレンティノと関係があったりしますか?(日本的に行けば生まれ変わりとか同じ魂とかでこじつけ解釈は可能ですかね、ミラノ的には不可だと思います)ヴァレンティノはジャコモにありとあらゆるものを投影しかねない勢いですよね。(※かつて愛した女性にジャコモを重ねているという推察から見当違いな可能性もあります)人間と恋に落ちたのは似た者同士故という話か、もっとぶっ飛んだ解釈をすればジャコミナとかつての女性の間には実は何らかの関係があってヴァレンティノが主によって涙を奪われてしまったように女性にも神は嫉妬して目の光を奪われてしまったとか、ジャコモもヴァレンティノに愛されてしまったので主が嫉妬して光を奪ってしまったとか、いろいろ考えられますがここまでくると推察ではなく幻覚ですね、自重しましょう。(遅い気がします)

 「胸が躍る♪ 空っぽの胸が~♪」の歌がヴァレンティノとジャコモのどちらの歌か忘れてしまったのですが、(ヴァレンティノだった気がします)限りなくジャコミナに近い感情で純朴に世界の美しさに感動する演技で歌われていました。この辺りはおそらく、ジャコミナの美しいものに純朴に好む姿を見て、涙とともに失っていた感動を、かつては美しいものが純粋に好きだった自分を取り戻していくヴァレンティノの救済のシーンなだと思いました。ヴァレンティノの特等席である舞台3階で、白のスポットライトを正面から浴びながらのびやかに歌い上げる姿はこういう勝吾さんが見たかった堂々No.1、光に向かって歩む主人公の姿そのものでした。

 ダヴィンチはヴァレンティノのテンペラ画を描き上げますが、完成したときには時既に遅く、ジャコミナの視力は完全に失われてしまっていました。しかし、君に天使の姿を見せてやりたかったのにすまなかったというダヴィンチに対し、ジャコミナは「子供の頃に誰にも信じて貰えなかったけれど僕はヴァレンティノの微笑みをみたことがあるよ」と言うのです。うーんわからない、間違いなくジャコミナは、天使(ルカや総称)ではなく「ヴァレンティノ」にあったことがあると言っていましたね。そして微笑んでいたと。ルカと指差してあんな顔嫉妬ソングを歌ってるとき、ヴァレンティノの姿が実は見えていたのでしょうか。それとも、ダヴィンチのもとへ来る前の記憶か、やっぱりかつての人間の女性と縁があってその記憶ぼんやりともっているのか……。はたまたぶっ飛び解釈ですが、ジャコミナがヴァレンティノの姿に似ているのなら、ジャコミナの母もヴァレンティノに似ているはずで、母の微笑みを記憶に残しているとか(ここでの「似ている」は姿かたちではなく魂の形的なニュアンスです)

 時代は飛んで現代、ルーブル美術館モナ・リザの前で500年ぶりに再会したルカとヴァレンティノはモナ・リザは誰の肖像画か?と揉め始めます。どう見てもヴァレンティノじゃないかというルカに対して、どう見てもジャコモだろうというヴァレンティノ。真相はわかりませんが、ダヴィンチがジャコミナに見せることが叶わなかった画はおそらくはモナ・リザのことを指すのでしょう。ということは、少なくともジャコミナとヴァレンティノはよく似た見た目をしているということ(2役1キャストなのがキーになっているんですね)。そして、ダヴィンチはヴァレンティノの微笑みを描いたはずですから、ダヴィンチの目から見たヴァレンティノの彼の心は、その肖像画がそっくり似通ってしまうほどにジャコミナの純朴に美しいものを好む心と同じ形をしていたのでしょう。私は画家は物体を描いているのではなく、その物に宿る魂を描いているんだよという話が大好きです。ここでヴァレンティノが最後にたどり着いた救済が、他者によって証明され、すこしハッピーエンドに近づいた感じがしました。

 さて、この解釈を引っ提げて来週答え合わせに2公演目に突撃しようと思います。長々とお付き合いありがとうございました!

書き漏れてしまった好きポイント
・ ヴァレンティノの小鳥のシーンで肩のヒラヒラをつまんで口元にもっていくしぐさが、ルカへの慈愛に満ちていて大好きだった。ひょっとしたらたまた手に引っ掛かっていただけで角度の問題かもしれない。

・ 勝吾さんの歌うときの「k」の発声が血を吐くような「kh」

・ ヴァレンティノの「僕は笑うんだ」の綺麗な自嘲の笑顔の美

・ 「主の真実は閉ざされた」と柵をつかんでいる手と顔にかざしている手の強張り具合がつらくて美。

追記の歌詞メモ

【ヴァレンティノ】

楽譜を燃やし 天才は寂しく死んだ 彼の墓に ヴァレンティノ

お前の分身 どうしても手に入れたい 石を粉々にし かけらを風に乗せ 送るのだ

作品を壊し 天才は寂しく死んだ 彼の墓に ヴァレンティノ

夜明けの星が住む 導かれた森で 次は探せるのか 千年いや 二千年後に 僕ら歌えるのか

⇒いい歌に見えてヴァレンティノの恋愛遍歴ソングですね

あの空 黒い森 白い小鳥 けがをして 小さい目が泣いていた

白い鳥は 幸せさ 苦しまず 死にもしない 天使にしてください

⇒ルカも大好きヴァレンティノ

許されたんだと思った 怒りはいつか 消え去るから 暗くなるのに

40日間 雪が降った 凍り付いた主の涙 40日間降り続いた 綺麗だった

⇒ヴァレンティノお前、主が本妻でその時惚れた人間で二股の常習犯だな

閉じ込められた僕のようだ 抜け出せない わかっている 闇に慣れてきて 

絵の僕と 絵を見てるジャコミナ 見つめあうとき 僕が泣けないのが せめてもの祝福

⇒一方的に愛しておいて祝福というのは厄介な奴だと決まっていますね。

 私のバイブル(PandraHeartsは最高なのでぜひ)では愛と生きろという言葉は「呪い」なのよ。


胸が躍る 空っぽの胸が 心臓がない僕の胸なぜこんなに踊る 

晴れの日 お前の涙が映す世界 輝いていたこと 伝えたい


【ジャコモ】

風の音 誰か囁く声 皆そんなことがつらく苦しいときに

風の音ささやく つらくかすかな記憶 苦しかった時も あれは夢なのか


【ルカ・ジャコモ】

例えばあの木陰潜んでるやつ ヴァレンティノ

やっぱり嫉妬?

⇒やっぱりジャコモにヴァレンティノは見えてるわよね?

3月2日(火)14:00~ 鈴木さん・石井さん回

 あら、当初の観劇予定にはなかった気がしますか。鋭いですね。石井ルカが忘れられずにチケット(と有給)を追加してしまいました。悔いはありません。初回の観劇からゲネプロ映像を何回も見て予習して、絶対に記憶に残して帰るポイントをリストアップした、万全の体制での二回目の観劇です。

☆感想☆

 なんといっても、鈴木さんも石井さんも初日より活き活きしてる。石井ルカと鈴木ジャコモが初日と比べてハチャメチャに愉快になっていました。観劇歴の浅いわたくしはこれが生の舞台か……とその尊さと記録に残らないはかなさをひたすらに噛み締めております。石井さんは天使についてで初めて出会った方なのですが、アドリブをぽいぽいぶち込んでいくタイプの方なのでしょうか。初日に覚えのない石井ルカとダヴィンチがたくさんいて、2回目のはずなのにびっくり箱を見ているような気持ちでした。

 石井ルカ登場シーンが、一人大劇場で大変可愛くて愉快だというのは前回で学んだ通りなので、今回は後で鮮明に思い出すことができるように、愉快ポイントをさくさく列挙していこうと思います。まず、「どこだ 祈ってる画家~ どこなんだ~♪」の可愛いポイントは(前回忘れてて悔しかったところ!)、どこなんだの語尾をあまり伸ばさずに☆が付きそうなポップな口調で締めるところですね。響かせる歌唱もできるからこその、あえて軽く遊ぶという、さすがの余裕と実力を感じますが、そういえば新米天使ではなかったのでしょうか。また、ぽくぽくと可愛い曲調で「たたたたた助けた~ま~え~♪」の2回目でオクターブを上がるところは、いったいどこから声を出されているんだろう?というチャチさと美しい高音が両立します。ダヴィンチの絵はわからないソングと同様に、石井さんは一つの音に複数の要素を乗せるの技術が上手すぎてびっくりしてしまいます。とても新米天使とは思えない堂々たる歌唱も健在で、特に、フレーズ最後のロングトーンを次のフレーズ頭と繋げて一息で歌いきる、ついでにロングトーンから高い所へこぶしを入れつつ登る歌い方が力強くて素敵でした。
 もちろんお歌だけではありません、羽は無いから猫のように飛び降りるんだ!と言って地上に降りてからも、しばしば猫の手ポーズをしていましたね(フリーホールにゃん(=^・^=))。例えばジャコモを待っている時とか、気を惹きたいのかしら……可愛いお茶目さんなルカですね。大失敗を犯していることにまだ気が付いていない、ジャコモに姿を現すシーンの「まだだ」のやれやれこれだから困ると言いたげな優しい笑みも。あと忘れてはいけないのが、ジャコモに「ちょっと待ってて、今ダヴィンチ先生が!」って放置されている間にパチパチパチパチパチパチパチとボディーパーカッションで暇つぶしをするルカ。すごい速さで膝をパチパチパチパチパチパチパチしていましたが、このルカは初日にいましたか?なんだこの面白いお兄さんは……と現在進行形で底なし沼のように引き込まれております。

石井ルカと鈴木ジャコモ「やっぱり嫉妬?ソング」
 この辺りはひょっとしてアドリブ祭りなのでしょうか。初日と印象が全然違って、こんな愉快なナンバーだったか?!特に振りが全然変わってるのです。まず、1回目にジャコモに「やっぱり嫉妬?」と突っ込まれてから、「僕が嫉妬……?」というときのルカが、つま先立ちでかかとをトントン(ブルガリアの波練かな?)しているしぐさが、何を言ってるのか本当にわからないと言った感じが出ていてとても楽しかったです。また、「ごめん そんなつもりじゃなくて」とジャコモを慰めに行くときに、腰を曲げてジャコモの顔を目線を下げて覗き込みに行くしぐさがとても慣れてて可愛くて、ああ、これをヴァレンティノに対してもやっていたんだなと自然と思いました。ヴァレンティノの後ろをとことこついていって、ちょっと意地悪で機嫌が悪いふりをするたびにこんなそわそわと可愛いことをされたら、それはヴァレンティノもルカのこと可愛くてたまらなくなってしまうな、可愛いのあまりわざとちょっかいかけてしまうのもしょうがないですね。ルカパートの次はジャコモは「風の音に耳を澄ませば♪」に合わせて、ジャコモはルカを相手に踊り出すのですが、ここのルカが死ぬほど適当で雑で最高です。ジャコモはルカの手をよいしょと取って、ラップされたり、決めポーズをとるのにルカに支えさせたりするのですが、ラップしてる最中のルカのこんなんでええか?ととても面倒くさそう。ジャコモを支えた後に何をやらされたんだ?と困惑気味に自分の両手を観るしぐさもとても最高でした。あと勝吾さんが、ジャコモの天真爛漫さを表現するのに片足をぴょいっとあげるポーズを取られるのですが、この上がってる御足の角度がぴょい♪っという感じで本当に可愛らしかったです。あれはジャコモ9才の足の上げ方でした。私にはわかります。

♪ ブラボー!フレスコ ソング🖌

 待ってました!!初日よりもジャコモがノリノリでブラボーしていた気がします。初日のジャコモは、手を口の横に添えて「僕はサクラですよ」と言わんばかりの よそよそしさだったので、とても対照的です。また石井さんの第一声の「フレスコ!!」が巻き舌でお歌放棄しての「ッフrrrrレッスコ!!!」で一気に雰囲気を持っていかれました。南イタリアピレネーの地中海を感じる陽気さですね(ミラノは北イタリアの内陸ですが)。フレスコソングと言えばダンスパートなのですが、石井さんと勝吾さんの踊り方もまた対照的で目が楽しいですね。石井さんはパッキパキ踊るタイプで、鈴木ジャコモぽよぽよあどけない感じで。ただ石井ルカは、登場シーンでもキレッキレののダンスと堂々たる歌唱で現れるのですが、タクトを振る振り付けだけ絶妙に優雅なのでがとても印象に残っています。この辺りの石田ルカの「早くていいぞ早いの最高!!」と一息で言い切るのもなんだかおもしろくなってしまいます。

 さて、今回絶対に目に焼き付けて帰るぞと意気込んでいったのが勝吾さんの「僕は笑うんだ」の凄絶な笑み。3列目からばっちりオペラで捉えてきましたよ。1回目観たときは、あきらめたような笑みの美しさという印象だったのですが、今回はまるっきり違いました。そんな静的なものではなくて、腹の底に煮えくり返る業火を飼っているような動きのある笑みでした。口を大きく開けて、口端は裂けたように綺麗に円弧を描いていて、どうして自分は理性を保っているのか、いっそ狂ってしまおうというような悪魔的な笑顔でしたね。スポットライトが赤で照らしているのも相まって、体の中に飼う煉獄とともに燃える地の底に沈んでいくような、色で例えると紅い笑みでした。ここに至るまでもたいそうな大ナンバーなのですが、「僕は泣けない、心臓の無い僕の心」と言った歌詞のところで、舞台の2階の柵に縋って心臓の位置をバシバシバシバシと叩きながら見えない壁に阻まれているような、何かに縋るような演技をしていました。このしぐさが、手に入らないものを必死で求めているような切実さ、あるいは主に見捨てられたときに、捨てないでくれとなり振りかまわずに縋るような、必死さという言葉では足らない感情がありました。言葉には残せない、こんな演技をするなんてやはりすごい役者さんです。一生忘れないぞと心に決めました。

 この辺りから前から3列目ドセンという圧に負けてまともな感想が残っていません。悔しい!!でもすごかった!!

書き漏れてしまった好きポイント散文

「なんだかきみ すごーーく がっかーーりしてないか?」の言い方が、そこで韻を踏みますか?という感じで楽しい、しかし勝吾ジャコモもすっごくきれいな作り笑いしていたので突っ込みたくなってしまうのもよくわかります。

ダヴィンチの時の石井さん目力が凄く眼光で人を殺せるなと思いました。特に、キャスター付きの椅子で移動しながら歌うシーンの苦悩と目力が圧倒的。

ダヴィンチがモナ・リザを書き始めるときに主に祈ってる(ように見せかけて実は全然祈ってない)ソングの歌詞で、「ちょっとならしてもいいです!」「天使は絶対送らないでください!!」ってキャンキャン歌うダヴィンチ可愛い。この時はお酒ちょっとじゃなくて結構飲んでますね。

 あと忘れてはいけないのが、カーテンコールからの退場。最後までチョコたっぷり、いえ見所満載で目が離せませんでした。鈴木勝吾さんはそのくそでかご挨拶で有名(多分)なのですが、初日の石井さんはさらっとしていたのですよね。それが2日目になって合わせようと頑張っていました!がそれを振り落としていく勝吾さんのクソデカご挨拶。見事でございました。あと、捌け間際で石井ルカがなぜか立ち止まって勝吾さんの持ってるバンダナに自分のバンダナをひっかけてぺんぺん草バトルをはじめました。一体何を始めたんだ??見てる客席は困惑ですが、きっと勝吾さんはもっと困惑してたように見えます。最後まで楽しいルカでした。

 

3月5日ソワレ17:30~ 鈴木さん/鍵本さん回

 3回目にもなると、台詞も歌詞も大体覚えてきました。今思うと1回目の考察がだいぶ違いましたね。きっとヴァレンティノは、かつての想い人にジャコモを重ねているわけではなく、ずっと小さいころからジャコモのことを見守ってきたんだろうな。

 さて、今回はほぼ勝吾さん定点カメラでの観劇でした。オペラをずっと構えていたので肩こりが酷い。しかし幸せな疲労ですね。

 今回の勝吾さんは、私が観劇した中では過去一ヴァレンティノの感情が荒れていたように感じました。千秋楽だから積み重ねてきたものがあるのでしょうか。一方でジャコモのシーンは対石井ルカの時よりも、落ち着いた雰囲気があった気がします。

 まずヴァレンティノのシーンは、お前いったい何回いうんだという感じですが、例の這いつくばって歌っているナンバー。今回は倒れ込むことなく、膝立ちで歌っていたので実質別物です。むしろ初日は柵に対して正面方向に倒れ込んで、足場の下に手を乞うように差しだす仕草をしていたきがするのですが、今回は膝立ちで天を仰ぎ見るような仕草でした。どっちも好きですが、個人的に3月2日マチネ回が一番打ち棄てられて、縋るような雰囲気があって好みです。さて、ヴァレンティノの感情の荒れが激しくなっていたというのはこの直前の歌詞「僕は主を裏切り 人間を好きになった」ここでいきなり曲調が変化するのですが、その時にガバっと上体を起こして正面に向き直り、こぶしを力強く握りしめる変化が一気に来るので、こちらも身構えてしまいます。「罪名は愛!!訳の分からない罰!!を受けた!!」のところも「愛」と「罰」という単語はもう叫ぶように、いや吐き捨てるように、顔をくしゃくしゃにして歌うのですね。日を追うごとに荒れていて、もう、ヴァレンティノ壊れてしまうよとそんな危うささえ感じる激しい感情の吐露です。この感情は怒りなのか、主に対するものなのか、自分に対するものなのか、言葉で言い表せるような単純なものではないのですが、本当に激情が表現されている圧巻のナンバーです。私はミュージカルではあまり劇中に拍手を送るのを好まないタイプの人間なのですが、ここは思わず自然と拍手が出てしまいました。

 個人的にヴァレンティノ救済ソングと呼んでいる「胸が躍る~」のナンバー。ジャコモと同じ純粋な美しきものを愛でる心がいっぱいに表現されたさわやかな曲だと思っていたのですが、実はそんな単純ではないのではと今日の荒れヴァレンティのを見て思いました「心臓のない僕の心 なぜこんなに踊る」のところだけ、春の陽気の下で深呼吸をするような爽やかさから一転して、心臓を4回ほどぶっ叩いて、そのまま引きちぎって目の前の虚空に叩きつける演技をするのです。よく聞けば台詞も「なぜ泣けない 目が痛い」なのですね。救済と悶えるような苦しみが並立している。美しさに心動かす=救済=欠けた部分の自覚とより一層の苦しみといった感じなのでしょうか。実はすごく複雑な感情が混ざり合って、あの透き通ったメロディーを作っているのかと表現力に驚くばかりです。

 珍しく歌ではない所でいうと「ルカの任務も失敗」「テンペラ画も完璧な失敗だった!!!」と言って笑い狂うシーン。今日のこの笑い、すごく長くなかったでしょうか……?この後に、泣き喚き吐き捨てるような「残酷だ!」があるからと待っていたのですが、なかなか期待の台詞が来ない。それどころが、笑いの種類がいくつか変遷している気さえします。悪魔的な哄笑と涙声でひきつったような笑い声と思わずこぼれてしまう自嘲のような笑いと。長いシーンで哄笑⇒涙声⇒自嘲⇒思い出したような露悪的な笑いに変化しているのかもしれないと感じました。笑い狂う、あるいはここにもいっそ狂ってしまえばといったヴァレンティノの感情が見えたように思いました。

 今回一番印象に残っているのが、ジャコモの最後のシーン。ヴァレンティノの「胸が躍る」と同じ曲を歌うのですが、途中、歌いながらしゃくりあげるような泣き声や声の震えを感じさせる部分があり、ジャコモ本当にガチ泣きしているのでは、と見てるこっちも涙がうつってしまいました。そんな涙声で歌っていたにも、関わらず、「むーねーがーおーどるー♪」になった瞬間、世界がパッと開けて、太陽の光がまっすぐ差し込んだような、圧倒的な声量とハリのあるお声で熱唱するのです。なにこのふり幅、私の情緒はもう振り落とされて涙腺がガバガバよ……。でもこのふり幅と表現力に、勝吾さんって本当に素敵な役者さんだなとおもいました。

 書き漏れた散文

「漆喰が固まったら♪」のところで、でをおでこにあてたポーズでピタッと固まる鈴木ジャコモがとっても可愛い。そのまま石膏にして飾っておきたくなってしまいます。アーアカイブの1時間40分50秒を観てくれ……

 1か所勝吾ヴァレンティノのソロナンバーでロングトーンがえぐい所があった、どこだっけ、覚えていない!悔しい!!それはそうと、「作品を壊して天才は寂しく死んだ」のところ勝吾ヴァレンティノがくっそ悪い顔してた。そのあたりの雰囲気と全然違ったので錯覚かと思ったけれど、悪い顔は天才に対してした表情ではないのかもしれない。

 ヴァレンティノによって任務が失敗したことを知り、落ち込んでる!と言いながらミラノの路地を足跡をつけずにとぼとぼ歩いているルカの歌。石井ルカ、歌ってなくて泣いてたな……と今日の真面目に謳っている鍵本君をみて思いました。あと石井ルカの固有台詞と固有仕草が多すぎる。あれもこれも固有ステータス、レアポケモンかよ(ポケモンはよく知りません)

 カーテンコールの勝吾さんの「マジで!?」の声が咄嗟に出たものとは思えないほどいいのと、お腹抱えて笑いながら、鍵本くんに、「じゃあ~~ってこと??」って突っ込みまくしたている姿は在りし日のヴァレンティノだと、観たこともないにも関わらず思いました。

 さて、本日の17:30~の RIKUさん・石井さんをの回を配信で観劇して、私の天使についてはおしまいです。舞台にはまって劇場通いをしたのは今回が初めてですが、観劇趣味めっっちゃくちゃ楽しいですね……なめていました。好きな役者さんが見るたびに増えて、これからがとても楽しみになりつつ、やや(いやかなり)財政的な心配もしております。また素敵な作品に出逢えますように!!

 お付き合いいただき、まことに、ありがとうございました!!

 

(といってアーカイブの感想も書くんだろうな)

 

配信期間が終わるまで

 配信期間中に実際に観たものの感想はこちらに残しておきます。忘れたころに、ヴァレンティノとダヴィンチについての盛大な幻想を書き記す予定なので、事実と幻覚の区分は大事です。

追記1 語り継ぎたい3月2日マチネの記憶

 配信(3月6日大千秋楽、5日ソワレ回)を観て、3月2日マチネ回の語り継いでいきたいシーンが蘇ってきたので、性懲りもなく追記です。

 石井ダヴィンチの絵がわからないソングの何が好きなのか

 40日間降り続いた雪の世界、勝吾ヴァレンティノが歌う世界の広さが千秋楽と全然違う。世界の広さとはいったい何なのかと言われそうですが、「雪が綺麗だった」と歌うヴァレンティノがに対する配置のされ方の話をします。2日の回は両手を地面についていた仕草もあいまって、ヴァレンティノが見てる視界は地面がほとんどを占めていました。それでいて降り続く雪はヴァレンティノと世界を隔てる厚く淡いベールのようで、この歌詞は彼は踏み入れることのできない、外側から眺めることしかできない世界の美しさを歌ってるように感じました。一方で、千秋楽はおそらくヴァレンティノは雪が降るのと同じ世界に配置されていて、主の凍り付いた涙をその身に受けることも実際にできている。けれど、かつてのようにそれは自分に向けて注がれたものではなく、主の意識を向けられることのないその他大勢の世界に無差別に降らせられるものなのです。その変わりの無い美しさと「許されたんだと思った」けれど自分に向けられたものなのかさえわからない。そんな主の無差別なギフトが降らされる荒涼とした世界にぽつんと残され、ただ雪を見上げるヴァレンティノ。どちらも冷たい虚しさを表しているのに、その中身は全然違うように感じました。

 また、罰を受けたのところで後ろに両腕を持ってくところ

 主の言葉を歌うときの、振り返り雲間から影を表すような表現からの、両手を広げて超越的な微笑みをするところ。ワタシ勝吾さんの人外の笑顔が大好きかな。

 両手を地面につけて伏せているところから、「暗くなるのに 暗くなるのに」に合わせて片手ずつ弾かれたように後ろに倒れ込み仰ぐ演技。この仕草、勝吾さんオリジナルかと思いきや、RIKUさんも似たような振りをしてるので付けられた振りのアレンジなのかもしれません。ここの弾かれ方とその後の天を仰いで隠しもせずに曝されるおはぐれた小さな子供のような今にも泣き出しそうな表情。衣装のかたのフリンジが凄くひらっとして良い、凄く辛いことにはかわらないのだけど。

 わらわなきゃ、3回アクセントいれるんだけども、膝をよく見る。

 ダヴィンチとの邂逅シーンのヴァレンティノ、日を重ねるごとにカッコつけてないかしら。千秋楽のオシャレ度がマシマシでした。全体的に歩き方がふらふらっと1箇所に留まらず、どこにもいないけどどこにでもいる、そんな雰囲気を醸しつつおしゃっれなのけど、特に最後に、筆にキスをしてミッションクリアを宣言するシーンとか、ダヴィンチに対して、自分の名前を教えるときに、顔を近づけて自分のお顔を指しながら「ヴァレンティノ」ってまるでとっておきの秘密だからとでもいうような。また、歩くときニふふんという効果音が付きそうな、小鳥に会いに行くための朝の散歩か??おしゃれだな。

 バカみたく祈ったヴィンチの眼光(何回も書いた気がしますね、しかし大好きなので何度でも書きます。)が、ミラノ一人相が悪くて最高でした。キャスター付きの椅子をコロコロ押して出てきたと思ったら、めちゃくちゃ大きく足を開いて、ドカッとだいぶお行儀の悪い感じで座るんですよね。手は、椅子の座面に添えて支えてるか、前で組んでいることが多かった気がしますが、やや俯きがちな角度で、客席をやや上目に睨むような表情で歌います。配信回千秋楽は、結構手ぶりがついている感じなのですが、2日の回はあまり動かず、かなり怖かった印象が残っています。

 ジャコモの最後、2日の回は、立ち上がっていなかったきがします?俯いてる倒れていったような………

 

追記2 アーカイブの記憶

 2公演分アーカイブが残っている特別待遇の石井さんですが、古谷ヴァレンティノの回とRIKUヴァレンティノの回で全然立ち回りが違うのですね。古谷ヴァレンは主に対する哀しみと感動を失った空虚な心を前面に出したキャラ作りで、静のヴァレンティノを描きます。一方でRIKUヴァレンにみられるのは理不尽に対する怒り。(ちなみに鈴木ヴァレンは自罰と道化だと思っています。聞いていません)

 この両極端なヴァレンティノを相手にするのが石井ダヴィンチなわけなのですが、古谷さんの回とRIKUさんの回でダヴィンチの方も変わってくるわけです。特に顕著なのが、『羨ましい』というヴァレンティノに対してのダヴィンチの台詞。

『羨ましい?』
『あそこから舞い降りることのできる天使が 永遠に死なない天使が 私のことを羨ましいだって?』
『ミラノを去る この私が』 

 古谷ヴァレンに対するダヴィンチは全体的に少し若い、くたびれていない印象を受けます。特にこの台詞は、ヴァレンティノの「羨ましい」にカチンときて、彼に対する苛立ちをにじませるとともに、人間とは異なる考えを持つ彼に対する、いいえ、出口のない人生に迷い続けている自分の一人問答に、諦念を覚えているように感じました。ダヴィンチにとって古谷ヴァレンティノは、何を打っても返ってこない、響かないような、少し気味の悪い存在だったのではないだろうか?必然的に、ダヴィンチの自己の中の一人問答が増幅されてぐるぐると一人悩み続けている。(きっとこのダヴィンチが書くモナ・リザはジャコミナだと割れて納得してしまいます)

 さて、ここのダヴィンチは「羨ましい」の語尾を下げることで、今お前はそう言ったな?と静かに諭してくるような怒りを見せます。「ミラノを去る」「私が」も同じです。でもきっとここにある苛立ちはヴァレンティノに対するものだけではなく、いつまでも諦めをつけることのできない自分に対する苛立ちもあるでしょうが、この静かな言葉に見間違いようのない怒りを感じました。

 一方RIKUヴァレンティノに対するダヴィンチも、声を荒げてはいるのです。むしろ古谷ヴァレンに対するよりも声色はずっと厳しい。けれど怒りは感じられず、癇癪のような。ダヴィンチが、RIKUヴァレンに対しては、ちょっとした癇癪をしょっちゅうぶつけられるような関係を築いていたのかなと思うのですが、どうなのでしょうか。

(ちなみに鈴木ヴァレンがいちばんダヴィンチに好かれそうで、本当かどうかはわかりませんが、仲がよさそうだなと思います。『人工の羽を研究中なんだ』というとき、ちゃんとヴィンチの目を見てお話を聞こうとしているし、人間にちゃんと興味を持っていそう。ダヴィンチが可愛いかわいいオタクになってしまうのも納得の可愛げがありますね、これは勝吾さんのファンの色眼鏡がかかっているのかな……)

 ダメ押しで鈴木ヴァレンと鍵本ダヴィンチの回について言うと、鍵本ダヴィンチのはこの台詞をしおしおと、力無く言うのですと言うのです。一方で、自他ともに認める激情を身に飼い馴らす鈴木ヴァは、鍵本ダの言葉尻にかぶせて、「ミラノを去る私g『羨ましい!!』」ですよ。どれもいいですね。

 

ずっと気になっているところ

「私はここも気に入っている」
「何かやるべきことがあるんだろう」

の後、ヴァレンティノはダヴィンチに向かって『ありがとう』というのですが、これは何対する感謝なのでしょうか?

鍵本ダヴィンチは、何について感謝されたのかわかっていない反応をされるんですね。そして鈴木ヴァレンはダヴィンチのその反応をみて、酷く可笑しそうに笑って去っていく。(ヴァレンティノはきっとダヴィンチによって救われているのですが、ダヴィンチはそんなつもりが無いんだということに気づいての自嘲でしょうか?自分は、勝手に救われていることに。でもね、石井ダヴィンチはきっとわかってるんですよ。ありがとう)石井ダヴィンチは行ってしまったな……ってちょっとだけ寂しそうな、ほっとしたような表情をするんですよね。

胸が躍るソング
「華やかな微笑みの仮面」の歌詞に合わせて片手ずつ順番に顔にもっていって綺麗笑顔を作るのですが、ここが完全に作り物の笑顔です。
「心臓が無い僕の心なぜこんなに踊る」の『何故』で両手を振り下ろすと、ヴァレンティノのヒラヒラが上に跳ねるのがとても印象的でした。これは鈴木ヴァレンティノの話でした。「悲しい 笑わなきゃ 苦しい 笑わなきゃ」の時の前髪も同じように跳ねるのですが、とても素敵なんですよね。(ちなみに胸が躍る~Frescoに間髪入れずに突入するわけですが、ここの曲の間のヴァレンティノの笑いが勝吾さんの上あごの歯並びが綺麗ポイントです)この辺りのヴァレンティノ(全編通してかもしれませんが、)は最高にロックで、「星を見るんだー!」のあと、下唇をかんで、星をつかんで振り下ろした瞬間にブラックアウトします。

 ちなみに、胸が躍るソングの石井ダヴィンチは、3回目のサビの入りに合わせて、パッと振り返るのですが、この絵を前にして、突然春の陽の日の光が差し込んで視界が開けたような清々しさが大好きです。5日も6日も、ヴァレンティノを差し置いてカメラに抜かれているので、カメラさんに感謝しかありません。

 

 

 

 

 

【モリミュOp3】 シャーロックの『哀しみ』と真実の非万能性への自覚

 モリミュOp.3の感想という体裁で、また見えないものを見る。

 

ウィリアムの《will》と《hope》

  Op.2の鑑賞時「I will / I hope」は素敵なデュエットでしたが、最後はテーマ曲の合唱を聞きたい……!という強欲な気持ちでいたので、今回のOp.3ではデュオからの大合唱という欲張りセットで幕が下りたときはとても嬉しかったです。

 また仕掛けも盛りだくさんで、Op.1、Op.2、Op.3を通してキーワードのように散りばめられている、WillとHopeが今回は2人とも同じフレーズの中で登場します。

 《Will》と《Hope》だと、感覚的に《will》の方が生に立脚した感情だと思っています。ですから、Op.2においてシャーロックが《will》を歌うのは生への眼差しの象徴になっていて、一方で生の反対へ目を向けるウィリアムが《hope》(英語の仮定法のニュアンスをイメージしています)を歌うには、2人に非常にマッチした割り振りだと思いました。

 それが今回は、2人とも 「I will」で始まり「I hope」で終わる同じフレーズを歌います。ここで、この対極のような動詞2つの間にいったいどんな感情の変遷があるのか?とまた見えもしない幻覚を見ようと頑張っています。

 ウィリアムの方は、「死の定め」というものが決して自らに課した罰や責というだけでなく、自身への救いのようなものだと捉えて乞い焦がれている、というのは原作のフレッドへ向けた台詞からも裏付けられているように異論はないのですが、果たして《will》と(定めを全うするという決意)《hope》のどっちが本心なのでしょうか。おそらく両方とも本心であることに間違いはないのでしょうが、「自分は死ななければならない」「死の定めを変えることはできない」という彼の感情は、迷い・あるいは迷いを振り払おうと自分に言い聞かせている嘘であるかのように私には聞こえてしまいます。

 きっとウィリアムの中には、救いを切望する心がまずあって、でも自分は救いを求める権利のある人間ではないという自責から罰を望むけれど、彼にとって罰を受けることが救いになるので、罰としての死を受け入れることはできない、といった矛盾がある。その矛盾を「死の定め」を逃れられない業のようなものに押し固めることで、死を救いだと思う自分の感情を見なかったことにして、救済を望む心を黒く塗りつぶしてようやく、「死」を最後のゴールに据えることになんとか説明可能な体裁を保っているように思います。

 とすると、最後の「美しい世界への 僕の死への道 I hope」(文字にするとなんちゅう歌を歌っているんだという気がしてきました)の《hope》は黒く塗りつぶしきれなかったウィリアムの本心の欠片のようなものだと思うのです。

 もう一曲のウィリアムの心情ソング「孤独の部屋に」は、「命捧げると 誓った日に この心の部屋の時は止まった…… この身には どんな音も 届かない」という歌詞から始まります。これも上記の解釈でいけば、これは決して本心の吐露ではないと考えられます。どんな声も「届かない」ではなく「受けとってはいけない」という自身の枷を自覚するための言葉なのではないか、と。

 最初に戻ると、歌詞の《 will 》から《 hope 》への遷移は、ウィの心のほころびととらえることができそうですが、そういえばOp.2は高らかに I hope していましたね。いったんこの議題は中断です。

 シャーロックの話が本題ですからね。

シャーロックの『哀しみ』について

 シャーロックのこの歌の中で個人的に聞き逃せない歌詞が「ここが最後のはじまり……哀しき決意の」(これは最初空耳で「悲しい帰結への」だと思い込んでいてそれはそれで悩んだのですが、ブックレットを見たら全然違う歌詞でした。でも解釈はまったく解決されなかったので、議論は続行です)。

 たとえ義賊であったとしても(それがこの荒んだ世界で唯一自分と同じ地平で語らうことのできる友人だったとしても)、彼を捕らえ断罪するつもりだ、というのが哀しき決意であることにまったく異論はないのですが、この「哀しき」という形容詞に違和感を覚えます。いったい彼はなぜ「哀しい」と断定しているのか、まるで未来が見えているようではないですか。いつもの自分の一人称の感情ではなく、物語の語り手のような三人称視点からの形容詞のようではないだろうか?

 ところで、モリステの北村シャーロックは、出会い頭に「すべてを終わらせる男だ!」という宣言をしてくなんとも物語を盤上の中からひっかきまわす意志に満ちみちた、ともすれば盤上の外からの視点を牧ウィルから奪い取ろうという野心溢れる奴なのですが(勿論これも幻覚です。最近思うのですが、北村諒くんは黒目が大きくってわんこ感に溢れててかわいいですね)、こちらの平野シャは物語の中からしか世界を見ることができない、世界に生きる駒としての立ち位置を徹底しているように思います。ショーをつくるモリアーティ陣営は常に物語をやや俯瞰するので、先にある「悲しみ」も目に入っていておかしくはないですし、Op.2、3とストーリーテラーとしての存在感を増してきているジョン=ドイル氏や、せっせと次の劇の仕立てに向かうミルヴァートンも少なくとも、物語の少し先までを外から俯瞰する視点を持っているように感じます。一方で、それとはまったく対照的に、物語の中に囚われて、俯瞰する視点を得ることのない印象を与えるシャーロックはいったい何を根拠に「哀しい」と表現したのでしょうか。

 幻覚① Op.2でシャーロックの信念として語られていた「科学は差別しない」「どんなありえなさそうなことでも それが真実なんだ」という言葉に対する、初めての迷いとその迷いに対する抗いの感情のようなものがあるのではないか。その迷いを経て、己が信念である真実が決して正義とならない可能性に気づきつつあるのでないか。

 シャーロックはこの時点で、犯罪卿が義賊であると確信を得ており、かつ犯罪卿がウィリアムであることの可能性を否定することができないでいます。それどころか、ウィリアムが犯罪卿と推理するに足る情報を得ている気がします。「ひとつひとつ可能性を潰していけば……」と歌うシャーロックにとって謎を解き明かせないというのは可能性をひとつに絞りきれていない状態を意味すると思うのですが、シャーロックは確実にリアム一択まで絞りこんでいますよね。

 やや決めつけ過ぎるきらいがありますが、なんてマイキーとウィリアムに揃って言われ続けてるからすこし反省してるのかしら。こんな心境の変化ちょっとくらいあってもいいですがこれは本命ではありません。

 おそらくシャーロックは、ウィリアムを犯罪者だと断定してしまうことで、2人の関係が不可逆的な方向へ進んでしまうに違いないことに気づいています。だからあえて、最後の一手を推理することをしない。あるいは必要十分以上の根拠を集めることに手段目的化することで、その事実から目をそらしていることを自覚しないようにしているのかも……なんて。

 2人の関係性もまだ未定義なのですが、それはいったんおいておきましょう。

 また、Op.3でシャーロックは初めて「都合のいい嘘」をつきます。(ちょっと待ってほしいのですが、ひょっとしてひたすらに「まこと」をテーマにゴリ押してきたモリミュに「嘘」が対立概念としてOp.3で挿入されてきていたりしますか?なんたって次のショーはというか、ショーと言ってる時点で虚構だったりしませんか?モリミュのテーマじゃなくてMtPの話かもしれませんが我ながら良い幻覚です)嘘というのは、科学が必要だと言い張り、真実を解き明かすべしとするシャーロックの信念とは勿論対局に位置するものです。また「都合の良い」という言葉も、ある種真実を明らかにしたところでどうにもならない社会への諦念や階級社会を見てみぬふりをし身分の差を理由にろくな捜査をしない犯罪捜査を支える言い分です。シャーロックにとって、これが忌むべき考え方でしかなかったことは容易に想像できます。

 それを今回「都合が良い」嘘が最善の選択になりうることに気づき、同時に真実というものは決して万能ではないという事実をつきつけられました。これがシャーロックの信念を揺さぶり、揺るがせる。今回、ジャック・ザ・リッパー事件で都合の良い嘘をつくという選択をしたのは、間違いなく彼にとってひとつの決意だと捉えられます。ではその延長線上に、たとえ〇〇であったとしても犯罪行為を行っている以上彼を捕らえ断罪するつもりだという決意があるとすれば?まだ見ぬ犯罪卿の真意はつかめず、シャーロックの行動と選択が織り込まれているという事実がさらに自身の決断を惑わせる。そんな中で、都合の良い嘘がときに最適解となり得ることを知って、真実を暴く以外の最良となり得る選択肢を得た彼が、それでも信念を貫いて真実を暴き、断罪を遂行する。その己の決意と行動の先にあるものが決して最善とも正義ともならない可能性への自覚。この自覚が彼に『哀しい』と言わしめたのかもしれません……なんてね。

 

過去の感想はこちら

ミュージカル憂国のモリアーティ Op.3 ホワイトチャペルの亡霊 - さとうの美味しいごはん

ミュージカル 憂国のモリアーティ 感想 - さとうの美味しいごはん

 

 

 

 

【モリミュOp.3】 初見の感想

まちに待ったミュージカル憂国のモリアーティOp.3のBlu-ray発売。

モリミュを大画面で見る為にホームプロジェクターを導入しました。

初見の感想を書き留めておこうと思います。

 

以下、好きなシーンの紹介にかこつけて見えないものを見る。

 

♪ 謎が謎めいて

 シャーロックは、アンサンブルさんの間で真ん中で立ちすくんで歌う演出が多い。Op.2の「あいつは~俺が守る」の時もそうでしたね。シャーロックは民衆の中で生きているので、人並外れた観察眼と推理力を持っていても、彼は民衆の上に立つことはなく、俯瞰した視線を得ることもない。そして平野シャーロックは、人波の中に翻弄される演技が上手いと感じます。人の世を「荒んだ」(これは原典シャーロック風に言えばつまらないという感情なのでしょうが、このシャーロックは個人では、原作と異なって階級制度に疑問を持つゆえのどうしようもない報われなさのような感情を宿しているような気もします)としばしば表現するシャーロックですが、人に紛れて歌うシーンでは必ず、人を追いかけて縋るような演技が入るのです。

 ふと思い出すのは、Op.1のらせん階段での推理対決のシーン。ウィリアムの最後のアンサーは「コックニーで話されるのはご自分の出自に誇りがあるから 特に母方への強い誇りが 違いますか?」この後のシャーロックの「どうしてわかった」までの間は、ウィリアムの推理全体に対しての感動なのか、それとも最後の出自と誇り関するアンサーに対しての感動なのかはわかりません。しかし、このシャーロックは間違いなく、出自や身分、そしてこの世を生きる「人」に対して言葉とは裏腹に大きな思い入れを抱いていて、それが無意識にこのような人に縋るしぐさを見せる演技の裏にあったら、と思うのです。

 対称的に、ウィリアムは基本的に世界を俯瞰している。Op.2の「悲しきものの涙が」の時も、一瞬民衆の間で歌い始める場面があったが、ウィリアムがかけよると糸が切れたように崩れ落ち、彼の腕の中に入ることはない。ウィリアムがしているのは上から寄り添うことで、これはシャーロックとの大きな違いだと思います。それでも、ウィリアムも人に手を差し伸べる、見方によっては縋るようなしぐさを見せることもあるけれど、ウィリアムが縋る先の人物はつねに冷たくなった人影で、世に「生きる」人に縋ることはない。

 ここまで書いて気づいたのですが、こんなところにはも生に向かうシャーロックと死の定めへを歩むウィリアムが対比されているのでしょうか。

 

♪ パターソン 悪魔の使徒はひそやかに

 ウィリアム陣営の中で彼は、少し立ち位置が異なるように感じます。立ち位置というよりは、ウィリアムと自己に対する認識の違いです。彼はウィリアムを悪魔と認識したうえで、自らを悪魔の使徒と称し、そう歌っている。モランとフレッドは、自らとウィリアムを悪とは認識しているが、すくなくともウィリアムを正しいことを遂行するものとして、悪魔などとは表面的にはいうが、本心では全くそう思っていないのではないかと思う。フレッドに関しては、ウィリアムが自分の所業を悪しく言うたびにかならず「でも、ウィリアムさんは……!」と言い募りますしね。

 パターソンはウィリアムの悪性と、それゆえの魔性ともいえる魅力を自覚したうえで彼に忠誠を誓い、また自身の悪性をも自覚している。「権力の大樹に身を置いて ……狂うはこの世の理か」この歌詞は汚職に手を汚すアータートンに対してのみ向けられたものであるとは思えない。「自分はヒーローになりたかったんだ」と正義に憧れていうパターソンは、自分の中の悪性を否定せず、一方で正義に対して憧憬を抱きながら決して届かない手を伸ばすという矛盾をについてどうとらえているのか。本作では明らかになることはありませんでしたが、きっと秘められたバックグランドがあるに違いないと感じさせる独白でした。

 先日、声優山本雄斗さんのラジオでOp.3の感想が配信されているのを拝聴しました。(この方もすっかりモリミュのファンになっているようで嬉しい限りです)そこで、パターソンのこの歌を指して、狂気とウィリアムへの心酔と表現していてそれもそうかもと解釈に新画角を得ました。パターソンの本心が本当にわからないのですが、今のところ、①自嘲(↑で述べたとおり)、② 狂気 ③ 心酔・背信 あたりが三つ巴の状況です。②の狂気に関して、パターソンは主任警部に重ねて、己の狂は自覚しており、それは即ち理性なのかと思っていたのですが、狂気を自覚してウィリアムへの誓いを立てる行為は、確かに一言で理性とは片づけられませんね。再考の余地があります。

アルバートからウィリアムへの歌

 アルバートの歌っている間ウィリアムがストップモーションだと知って思わず見直したら本当にそうなのですね。ビジュアルコメンタリーでも勝吾さんがそうおっしゃていました。アルバートの声は、決してウィリアムに届かないのか?そう思わずにはいられない歌だったと感じています。

 同じく兄弟からウィリアムへ向けた歌としてすぐに思い出すのが、Op.2のルイスの「兄さんソング」。そこでは、最初ウィリアムが頑なにルイスから目をそらしていました。それをアルバートが、ルイスからウィリアムへ、その想いの橋渡しをして、そこでようやくウィリアムはルイスを見据えることができるので、ここでルイスの思いはウィリアムに受け入れられたのだと感じることができました。(ビジュアルコメンタリーで、久保田さんが嫉妬の嵐ですよ、なんて言っていたので今見ると違って見えるのかもしれませんが)

 一方でアルバートの歌はウィリアムへ届いたのか、酷く不安が残ります。そもそもの歌詞を思い出しても、アルバートの思いはウィリアムに何かを訴えるものだったか?アルバートの心のうちだから、実際にはウィリアムへは聞かせてはいないとはいえ、ウィリアムへ対して問いかける言葉も、彼に対して何かを望む言葉も含まれていません。

 それに「ならば私は誓おう ともに重き荷を負いて ゴルゴダへの道を歩もう」というアルバートの歌の直後のウィリアムの台詞。これも酷く不釣り合いな、何を言葉の裏にはらんでいるのか冷たいものを感じました。「死の定めは変えられないけれど、せめてそれまでは悔いなく行きたいと思うのです」と、これはひどく明るい表情でウィリアムは言いますが、これは明らかな”嘘”ではないか?それも、アルバートに心配をかけまいという優しさから出た嘘ではなく、嘘をついていることも取り繕えないような。そんなものに聞こえました。

 久保田さんの歌い方について追加で気づいてしまったのですが、彼はこのパートを歌うとき、フレーズの語尾を伸ばさずにやや違和感があるくらい短い音符で終わるものが多くあります。また、ロングトーンでもビブラートはかけずに音符を短く止めて落としていく。ひょっとして、これはこの歌がウィリアムに届かないことを意味しているのではないか?あるいは、アルバートとしてもウィリアムに届かせる気はなく、口からこぼれた言葉は届けられることも、振返えられることもなく、ただその場にぼてぼてと落ちている。そんな心情を歌い方においても表現されているのは、ともしそうだったら底知れないなと思いました。

 

長くなってしまうのでいったんここで区切りです。

 

 

作品リスト

2022年1月~3月

舞台

  • 演劇の毛利さんvol.0 星の飛行士(ニコ生配信) 

  サンテグジュペリは児童文学ではなく、大人のためのメッセージに違いないと思った。感想「音楽劇星の飛行士」 - さとうの美味しいごはん

  • ミュージカル憂国のモリアーティOp.3(円盤)
  1. ミュージカル憂国のモリアーティ Op.3 ホワイトチャペルの亡霊 - さとうの美味しいごはん
  2. モリミュ Op.3 感想追記 シャーロックの『哀しみ』と真実の非万能性への自覚 - さとうの美味しいごはん
  • Japan Musical Festival 2022(渋谷公会堂
  • 名曲フレッシュコンサート(練馬文化会館大ホール)

 東京都交響楽団ストラヴィンスキー火の鳥」、ボロディン「だったん人の踊り」を目当てに聴きに行きました。ホルンの西條さんがあいも変わらず素敵でした。

  • 舞台『文豪とアルケミスト 綴リ人ノ輪唱』
  • ミュージカル「天使について」鈴木・石井回、鈴木・鍵本回(自由劇場

小説

  • 砥上裕將「線は、僕を描く」

  水墨画の精神性をとても分かりやすく描いてくれる作品。スポコンでもなく、大学生活のくだらなさを大切に描いた作品でもなく、その中間のグラデーションを水墨画の濃淡に乗せて映し出しているような穏やかさが心地よかった。水墨の技法も詳しく書いてあってつい作品を見てみたくなる。

  女性なのでは?と錯覚しながら読んでしまう作家さん。きっと、「気づかせてくれる」女性の立場に存在する歪みの部分にひどく共鳴してしまうのだと思う。朝井リョウの作品の賞味期限はきっと20代で、数年後にはこの方の本に思い入れを持っていた自分をひどく青くてくだらなく思うんだろうなと予想しつつ、今の共鳴を大事にしたい。他の作品も早いうちに読んでいきたい。

  長年本棚に積んであった、年季入りの積読をようやく消化しました。上巻は人間が信じられなくなるばかりで面白い展開はまったくと言っていいほどなく……。しかしこれでようやく十二国記の世界の入り口に立つ権利を得られたのだと、続きを少しずつ読んでいきたいと思います。

 

  無料の動画配信サービスがインフラになって、誰もが暇な時間を無料で体力を使わずにつぶせるようになった時代には、映画なんていう、3時間も人の時間を奪って、ありったけのメッセージをこれでもかと込めて作り込まれた映像作品を受け取るなんていうのは体力を使ってしょうがないんだ。消費者はそんなものを求めていない。そんな現代に映像を撮り続ける、別の道を歩んだ青年2人のお話。暇な消費者が払っているものは、お金じゃなくて時間なんだよ。時間を払ってまで、体力を使うものを見せられたくないんだ。youtubeから垂れ流される映像は、時間をつぶすのにちょうどいいんだ。作中で青年2人に向けられたこれらの言葉は、瞬時に否定したいけれど、そうなってしまっている世の流れを否定することはきっとできない。映画とyoutubeが同じ土俵で、消費者の「時間」をめぐって競うような、市場が重なる時代なんだなと思うと、直観的に違和感を覚えるけれど、認めざるを得ないと納得してしました。最近盛んになった舞台配信のアーカイブに「時間が無い」と手を出せないでいるのに、Youtubeで予告PVを何回も繰り返し見ている自分にも少しハッとさせられました。

 『星の飛行士』以来、サン=テグジュペリがブームです。曲芸子として芸を磨き、少女時代の一瞬の儚さと若さと未完成さゆえの魅力で芸を売る女の子たち。

 カクヨムにて連載中。最近の楽しみです。

  • 恩田陸『私の家では何も起こらない』

漫画